坂本龍馬の妻・お龍(楢崎龍)のその後|再婚した相手は?
お龍(おりょう)といえば、坂本龍馬の奥さんとして有名です。
龍馬と日本人初の新婚旅行をしたり、寺田屋事件では、入浴中のお龍が裸のまま幕府の役人が襲ってきたことを知らせ、龍馬の脱出を手助けしたという逸話も残っていますが、龍馬が死んだ後のお龍はどのような人生を送ったのでしょうか?
そこで今回は「お龍のその後」と題して、お龍の人生を紐解いていきます。
下関から土佐(高知県)の龍馬の実家へ
1867年11月、京都の近江屋で龍馬が暗殺された日、お龍は龍馬の夢を見ました。
血塗れの刀を持った龍馬がしょんぼりとした様子で、お龍の枕元に立っていたのです。
その当時、お龍は下関(山口県)にいました。
下関で龍馬の訃報を聞いたお龍は、黒髪を切り落とし、仏前に供え、号泣したそうです。
その後、しばらくの間は長州藩士・三吉慎蔵(みよし しんぞう)がお龍の面倒を見ていましたが、やがて土佐(高知県)の龍馬の実家に引き取られます。
龍馬の姉・乙女(おとめ)はお龍を温かく迎え入れてくれたのですが、龍馬の兄・権平(ごんぺい)とその妻とは気が合わず、3ヶ月後、お龍は龍馬の実家を出てしまいます。
江戸でお龍を温かく迎えてくれた西郷隆盛と勝海舟
次に、お龍は京都の東山に移り住み、龍馬の菩提を弔う日々を送りました。
ところが、ある公卿が美貌のお龍を愛人にしたがっていることに気づき、京都を去って江戸に向かいます。
江戸でお龍が頼ったのは、龍馬の甥(長姉・千鶴の子)で元海援隊士の坂本直(さかもと なお)でした。
しかし、坂本直は龍馬の死後、坂本家の家督を継いでおり、「お龍さん、おまさんはもう坂本家とは何の関係もない」と冷たく言い放ちました。
その言葉に、お龍は悔し涙を流したそうです。
そんなお龍を温かく迎えてくれたのは西郷隆盛でした。
西郷はお龍の面倒を見ると言いましたが、程なくして西南戦争が勃発。
西郷は非業の死を遂げます。
また、龍馬の師匠でもある勝海舟から料亭を紹介され、そこで中居として数年間働きますが、それも長続きすることはありませんでした。
お龍が1つの場所に落ち着くことができなかった理由
このように、お龍は龍馬の死後、各地を転々とするわけですが、なぜ1つの場所に落ち着くことができなかったのでしょうか?
実は、お龍の評判はあまり良いものではありませんでした。
土佐藩士や海援隊士らは「生意気で、龍馬の妻であることをいいことに隊士たちを見下していた」「お龍は美人だけど、賢くて品格のある女性かどうかはわからない。良いところもあるが、悪いところも目立つ」などと言っていたそうです。
お龍はかなり強気な性格だったので、周囲の人は手を焼いていたのかもしれません。
呉服商の西村松兵衛と再婚
そんなお龍も1875年(明治8年)、西村松兵衛という呉服商と再婚することができました。
再婚に伴い、名前を「西村ツル」と改めて、横須賀に住み始めました。
しかし、夫婦関係はあまりうまくいかず、やがて西村松兵衛とも別居。
晩年はアルコール依存症のような状態だったようです。
酒に酔ったお龍はよく「私は坂本龍馬の妻だ!」と口にしていたそうです。
お龍の状況が一変する出来事
このように、龍馬の死後は不遇の人生を歩んできたお龍ですが、状況が一変する出来事が起きます。
日露戦争開戦直前の1904年(明治37年)、美子皇后(はるここうごう・明治天皇の皇后)の夢枕に坂本龍馬が立ったという話が広まり、日本中で龍馬人気が巻き起こります。
すると当然、龍馬の妻であったお龍への注目も集まります。
しかし、1906年(明治39年)お龍は危篤に陥ります。
これに際し、皇后大夫・香川敬三(元陸援隊士)から御見舞の電報が送られますが、その直後、1906年(明治39年)1月15日午後11時、お龍は66歳で脳卒中が原因で亡くなりました。
墓石には「西村ツル」ではなく「坂本龍子」と刻まれた
お龍の死後、神奈川県横須賀市の信楽寺(しんぎょうじ)に葬られましたが、墓碑が建てられることはありませんでした。
しかしその後、日露戦争の際、国民を鼓舞するために宮内大臣・田中光顕(たなか みつあき・元陸援隊士)がお龍のお墓を建てることになりました。
墓石には「西村ツル」ではなく「坂本龍子」(厳密には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」)と刻まれています。
最後に、お龍のことをよく知る料亭の女将の言葉を記載します。
「お龍さんは器量のよい人であり、教育もある人でしたので、あちらこちらから再婚をしきりにすすめられて、海軍工廠御用商人の西村文平という人と同棲数年に及びましたが、龍馬さんの面影を慕って節操を侍したため、とうとう不縁となり、またもとの独り身になって、女髪結の手伝いなどして、お酒にひたって傷ついた心を慰めておられました。
お国のために尽した人でもあり、その半生はお気の毒でなりませんでした」
まとめ(超個人的見解)
強気な性格だったお龍は、龍馬の死後、不遇の人生を歩み続けました。
それでも、お龍の美貌に目をつけた男たちが次々に現れたそうです。
しかし、結局お龍は幸せな人生を歩むことができませんでした。
なぜなのか?
その理由は、龍馬と一緒に暮らした日々があまりにも刺激的で幸せだったからだと思います。
宝くじが当たった多くの人が、その後不幸になるという話を聞いたことがあります。
人は大きな幸せを受ければ受けるほど、その後の人生が不幸になるのかもしれません。
心理学の世界では、幸せの絶頂なのに、わざわざ不幸を探しにいく人も多いと言われています。
人には少なからず「幸せになる恐怖感」があり、わざと不幸を探して、心のバランスを保っているのかもしれません。
また、龍馬はお龍と同じように勝ち気で破天荒な性格ですから、お互いが特別な存在だったのでしょう。
周囲から煙たがられたお龍を受け入れてくれたのは、世界中でただ1人、龍馬だけだったのです。
それほどまでに1人の男性を愛することができたお龍は経済的に裕福ではありませんでしたが、世の中の誰よりも幸せだったのかもしれませんね。