【源義経=チンギスハン 同一人物説】を裏付ける5つの共通点と驚きの結末

【源義経=チンギスハン 同一人物説】を裏付ける5つの共通点と驚きの結末 歴史ミステリー(その他)

【源義経=チンギスハン 同一人物説】を裏付ける5つの共通点と驚きの結末

日本の歴史の中でも特に人気がある源義経が、実は生きていた…!?
さらに、中国大陸にわたり、チンギスハンになった…!?
そんな「源義経=チンギスハン 同一人物説」を徹底解説いたします。

源義経ってどんな人?

ご存じの通り、源義経は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟です。
(幼名「牛若丸」でも有名ですよね)
壇ノ浦の合戦をはじめ、平家との戦いで連戦連勝し、源氏の勝利に大きく貢献しました。
ところがその後、お兄さんである頼朝から反感を買い、義経は追われる身となります。
北へ北へ逃げた義経ですが、最後は奥州国(岩手県)で自刃し、31歳で生涯を終えました。

大河ドラマや牛若丸で有名な源義経

…というのが、一般的な話ですが、実は義経は死んでおらず、蝦夷(北海道)へ逃げ、その後中国大陸に渡ってチンギスハンになったという説があるのです。
なんとも大胆な説でロマン溢れますが、なぜそのような説が生まれたのか?といいますと、そこにはいくつかの理由や証拠がありました。

その前に、チンギスハンという人物について簡単に説明します。

チンギスハンってどんな人?

各地に散らばっていた遊牧民族をまとめ上げ、モンゴル高原を統一。
その後、歴史上最大ともいえるモンゴル帝国を築き上げた歴史上超有名な人物です。

チンギスハンは1162年に、父・イェスゲイ(エスガイ)と母・ホエルンの長男として現在のモンゴルに生まれました。
幼名は「テムジン」です。
お父さんは有力な部族のリーダーでしたが、チンギスハンがまだ幼い頃にライバル部族に殺されてしまいます。
父親が殺され、家族は困難続きの生活が続きますが、その後チンギスハンはたくましく成長していくと、かつての父の家来がチンギスハンに従うようになり、彼の力はどんどん強大になっていきます。

そして、チンギスハンは大小の遊牧民族をまとめ上げ、モンゴル帝国を建国。
その後は、さらなる領土拡大と世界征服に向けて度重なる遠征を繰り返します。
モンゴル帝国の最大領土は、世界の4分の1というから驚きです!

モンゴル帝国の最大領土は世界の4分の1!

最後は、西夏(中国西北の国)征服中に病で亡くなりました。
1227年、享年66歳でした。
しかし、自分が死んだことが敵国にばれると敵国から攻め込まれる危険性があることから、チンギスハンの死は隠し通されたそうです。

…と一般的にいわれていますが、チンギスハンの出生については諸説あり、今でもはっきりとはわかっていません。
それでは、なぜ「源義経=チンギスハン 同一人物説」が生まれたのか?といいますと、2人には多くの共通点があったからです。
1つずつ解説します。


共通点その1 生きていた年代がほぼ一致する!

源義経は1159年生まれで、チンギスハンは1155年~1162年の間に生まれた可能性が高いので、2人はほぼ同時代に生きていたことになります。
また、義経が奥州国(岩手県)で自刃したのが1189年なのに対して、チンギスハンが歴史上に登場するのは1206年にモンゴル帝国を成立させる直前からとなり、義経が歴史の舞台から消えたタイミングで入れ替わるようにチンギスハンが歴史の舞台に登場します。
チンギスハンは歴史上とても偉大な人物なのですが、実は前半生が不明なのです。
義経とチンギスハンが同一人物であれば、前半生は日本にいたわけですから、不明であることも頷けます。

源義経とチンギスハンの年表

共通点その2 使用している紋章がそっくり!

源義経の家系である清和源氏では「笹竜胆(ささりんどう)」が代表的な家紋として使用されていましたが、実はチンギスハン軍も「笹竜胆」とよく似た紋章を使用していました。
大英博物館に所蔵されているチンギスハンの像の台座にもこの紋が描かれており、義経が「笹竜胆」をモンゴルで広めたという可能性があります。

源義経の家紋とチンギスハンの紋章

「単なる偶然なのでは?」と感じるかもしれませんが、実は大陸の高原には「笹」は存在ません。
それなのに、チンギスハンが「笹」を使った紋章を使用しているのは、義経とチンギスハンが同一人物である証拠といえるのではないでしょうか。

共通点その3 2人の軍事戦略が似ている!

ご存知の通り、源義経は「奇襲攻撃」が得意でした。
「一ノ谷の戦い」も「屋島の戦い」も完全に奇襲攻撃で勝利しています。
同様に、チンギスハンも奇襲攻撃を得意とし、重要な戦いではこれを多く用いていました。
例えば、モンゴル高原中部を支配していたケレイト王国と戦った際には、ケレイトの君主を急襲することで戦いに勝利し、モンゴル高原統一のきっかけをつくっています。

また、中国では一般的に短い弓や矢が用いていましたが、チンギスハン軍は大型の弓を使い、中国人から「長い弓の盗賊」と恐れられていたそうです。
もちろん、日本では大型の弓が主に使われていましたので、義経が日本の武器を持ち込んだ可能性があります。

チンギスハン軍も馬上で弓を使っていた!

共通点その4 義経もチンギスハンも身長が低く、お酒が飲めなかった!

源義経の推定身長は147cmで、チンギスハンも身長が低かったといわれています。
また、2人ともお酒を飲めなかった点も共通点といえますね。
ここで、2人の肖像画を比較してみましょう。

浮世絵に描かれた源義経とモンゴルの寺院に残されたチンギスハン像

似ているような気もするし、似ていないような気もします(笑)。
でも、2人とも切れ長の目であるところは同じですね。

共通点その5 義経もチンギスハンも「クロー」と呼ばれていた!

源義経には「九郎義経(くろうよしつね)」という別名があります。
大河ドラマでも、兄・頼朝は義経のことを「九郎(くろう)」と呼んでいますよね。
実は、チンギスハンにも「クロー」という別名があり、親しい者からは「クロー」と呼ばれていたそうです。
また、チンギスハンが即位した時、歴史書「蒙古史」には↓このように記されています。

九旒(くりゅう)の白旗(しらはた)を興安嶺(こうあんれい)上にひるがえした

白旗は源氏の旗印であり、九旒は「九郎(くろう)」と語感が似ています。
さらに、蒙古の古城跡では「城主はクローと称していた」という言い伝えが残っています。
これ以外にも、日本とモンゴルには語感が似ている言葉がたくさんあります。

●軍職の名は「タイショー」として現代に伝わります。

●チンギスハンが中東商人の質問に「出身地はニロンのキョト村」と答えたという記録があります。
「ニロン」は「日本」が、「キョト」は「京都」が訛ったといわれています。

●チンギスハンの「ハン」は君主や有力者が名乗る称号であり、日本の役職名を示す「守(かん)」に由来し、義経を指しているという説があります。

●チンギスハンが滞在した熱河省(現河北省北東部)に「へいせん」という地名があり、これは義経ゆかりの「平泉」によるという説があります。

●沿海州ナホトカとウラジオストクの間に「ハンガン」という岬と泊地があり、義経(九郎判官)が上陸したことから名付けられたという説があります。

●モンゴルの城壁の外装は「マク(幕が由来?)」、白い天幕は「シラ」と呼ばれています。

●モンゴル人がつくった中国の王朝である「元」は源義経の「源」から名付けられた可能性がありますし、モンゴルには「源」という苗字がとても多いそうです。

う~~~ん。
ここまで共通点が多いと、「源義経=チンギスハン 同一人物説」がかなり真実味を帯びてきます。
ところで、「源義経=チンギスハン 同一人物説」を一番最初に言い始めた人は誰だと思いますか?
実は、日本人ではありません。

「源義経=チンギスハン 同一人物説」を一番最初に言い始めたのは誰?

「源義経=チンギスハン 同一人物説」を一番最初に説いたのが、江戸時代に来日したドイツ人医師のシーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)です。

ドイツ人医師のシーボルト

シーボルトは医師であると同時に、民俗学にも精通しており、モンゴル帝国に関する大陸ならではの情報を持っていた可能性があります。
↓このようなエピソードがあります。

シーボルトが中国に渡って「建靖寧寺記(けんせいねいじき)」という碑文を見た時のことです。
碑文はモンゴル語で記されており全く読めなかったのですが、中国人に碑文の内容を聞いたところ、次のように説明されたそうです。

「元(モンゴル人がつくった中国の王朝)の太祖は元々日本人で、兄の怒りに触れて蝦夷に渡り、彼らを服従せしめて満州に移って蒙古に赴き、中国を治めて帝位に上り、源氏の源を借りて元と国号を改めた」

まさしく、源義経と兄・頼朝のエピソードを連想させます。
さらに、シーボルトは自身の著書「日本」の中でも源義経とチンギスハンは同一人物説であることを書き記し、その後彼が幕府の顧問に就任した際には「源義経=チンギスハン 同一人物説」を日本の正史にするべきだと何度も提案したそうです。
外国人であるシーボルトがなぜここまで力説するのでしょうか?
やはり「源義経=チンギスハン 同一人物説」が真実だからなのかもしれませんね。

源義経はどうやって中国大陸に渡った?

それでは、源義経はどうやって中国大陸に渡ったのか?といいますと、頼朝の軍から北へ北へ逃げた義経は奥州国(岩手県)で自刃 …したわけではなく、そのまま蝦夷(北海道)に移動しました。
その後、しばらく北海道に滞在した後、アイヌの水先案内人によって中国大陸に渡りました。

源義経の逃亡ルート

その証拠に、以前ニコラエフスク(現ロシア)から100キロメートルの郊外にある石碑があったそうです。(ニコラエフスクとは、樺太から大陸に渡った入り口部分の町です)
その石碑は現在は撤去されていますが、石碑には「義経」などの漢字「笹竜胆」の紋章が刻まれていたそうです。
日本ではなく、ロシアに「義経」と刻まれた石碑があったことは驚くべき事実ですね。

また、1670年、幕府の命令で作られた「本朝通鑑」という書物では↓このように記されています。

源義経は衣川で死なず蝦夷地に渡った。蝦夷には今も義経の血を引いたものがいる

さらに、水戸光圀(水戸黄門で有名)の蝦夷地の調査報告書には↓このように記されています。

「義経はオキクルミ(農耕や狩猟の神)としてアイヌ人に崇められている」
「蝦夷地には義経や弁慶にまつわる地名が多い」

いずれも江戸時代の話なので100%信じることはできませんが、現地(北海道)にも数多くの源義経の足跡が残っているのは疑いようのない事実です。
事実、東北・北海道ではこの「義経北行伝説」をいまだに信じている人がとても多いようです。

まとめ(超個人的見解)

なぜ「源義経=チンギスハン 同一人物説」が生まれたのか?といいますと、源義経があまりにも魅力的な武将だったからだと思います。
兄・頼朝のために必死に戦ったにも関わらず、最後は頼朝軍に追われて自刃した悲劇のヒーローだからこそ、「生きていてほしい」という願望から生まれた伝説だといえます。
実は2004年、オックスフォード大学の研究者がDNA解析を行なったところ、モンゴル帝国時代のチンギスハンのもつY染色体が日本人には見られないものであることと判明し、2人は別人である可能性が高まりました。

しかし、私は信じています!
源義経とチンギスハンが同一人物であったことを。
なぜなら、チンギスハンの死後、モンゴル軍が日本を攻めているからです。
そう。元寇です。
↓こちらの年表をご覧ください。

源義経とチンギスハンの年表

※冒頭の年表からピンク色の部分が追加項目です。

チンギスハンは1206年にモンゴル帝国を建国し、世界の4分の1を支配します。
その7年前に源頼朝は死去していますが、義経(チンギスハン)は大陸にいたため、頼朝死去の情報を知りません。
その21年後にチンギスハンも病死してしまいますが、その間にであるフビライハンにこう言ったはずです。

「フビライよ、日本に行って源頼朝を、鎌倉幕府を討て!」

チンギスハンが病死した時、フビライハンは12歳ですから、おじいちゃんの遺言を胸に秘め、1274年遂に日本に戦を仕掛けたのです。
そう。
元寇とは、源義経の頼朝に対する壮大な復讐劇だったのです!

元寇は源義経の壮大な復讐劇だった!?

というのが、私の「超個人的見解」です。
浪漫がある説だと思いませんか?

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