武市半平太の壮絶な人生|坂本龍馬との関係・三文字切腹・妻富子の晩年

武市半平太の壮絶な人生|坂本龍馬との関係・三文字切腹・妻富子の晩年 歴史ミステリー(江戸・幕末編)

武市半平太の壮絶な人生|坂本龍馬との関係・三文字切腹・妻富子の晩年

私の個人的な意見かもしれませんが、武市半平太ほど時代の波に翻弄された人はいないと思います。

武市半平太(武市瑞山)

時代は江戸末期。
浦賀にペリーが来航したことにより、それまで鎖国を貫いてきた日本では、外国人を受け入れるかどうかで国が混乱状態に陥ってしまいます。

多くの武士の間では「尊王攘夷(そんのうじょうい)=天皇を守って外国勢力を日本から追い出そうという思想」が広がり、武市半平太も尊王攘夷志士のリーダーとして果敢に時代に挑戦し、散っていきました。
そんな武市半平太の人生を追っていきたいと思います。

なお、武市瑞山(たけち ずいざん)と呼ばれることもありますが、半平太(通称)のほうが馴染み深いので、このページでは「武市半平太」で統一してまいります。

剣術修業にまっしぐら!

武市半平太は1829年、土佐藩(高知県)の白札郷士である武市正恒(たけち まさつね)の長男として土佐吹井村で生まれました。
当時の土佐藩には身分制度があり、上士(上級藩士)下士(下級藩士)の間には大きな身分の差がありました。

ちなみに、武市家の白札郷士は上士(上級藩士)と同格の身分です。

当時の土佐藩には身分制度があった

1856年、武市は21歳の時に江戸(東京)へ剣術修業に出ます。
「鏡心明智流(きょうしんめいちりゅう)」の桃井春蔵(もものい しゅんぞう)の道場に入門し、翌年には塾頭となるほどの腕前でした。
また、江戸では他藩の尊王攘夷志士と交流し、大きな刺激を受けました。

その後、土佐に戻った武市は、剣術師範・麻田直養(あさだ なおもと)から免許皆伝を伝授され、叔父の島村寿之助(槍術家)と共に道場経営をスタートします。
武市の道場は人気があり、一時期は120名もの門弟がいました。

武市半平太の道場跡と瑞山神社(高知県)

その中には、その後武市と活動を共にする中岡慎太郎(なかおか しんたろう)岡田以蔵(おかだ いぞう)などもいました。
事実上、この道場が後の「土佐勤王党(とさきんのうとう)」の母体となるわけです。


「尊王攘夷→開国→尊王攘夷」と次々に変化する社会情勢

1859年、土佐藩に激震が走ります。
「安政の大獄(あんせいのたいごく)」で、土佐藩藩主である山内容堂(やまうち ようどう)が隠居謹慎処分となり、日本国中で粛清の嵐が吹き荒れるのです。

井伊直弼による「安政の大獄」

ここで「安政の大獄」について簡単に説明すると、「安政の大獄」は江戸幕府の大老・井伊直弼(いい なおすけ)らが行なった弾圧政策で、「開国派」の井伊らが日本各地の「尊王攘夷派」を弾圧した歴史的事件です。
長州藩の吉田松陰もこの「安政の大獄」によって処刑されました。

すると、井伊の一方的な弾圧に激怒した尊王攘夷志士たちが、江戸城の桜田門外で井伊直弼を暗殺します。
歴史的に有名な事件である「桜田門外の変」です。

「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺される

これがきっかけで、再び全国的に「尊王攘夷」の機運が一気に盛り上がっていきます。
このように、当時の日本は「尊王攘夷→開国→尊王攘夷」と社会情勢がどんどん変化し、大混乱に陥っていたのです。

遂に「土佐勤王党」を結成!

このタイミングで、遂に武市半平太が動きます!
道場生であった中岡慎太郎や岡田以蔵らと共に「土佐勤王党」を結成し、ここに幼馴染の坂本龍馬も参加します。

「土佐勤王党」に有能な人材が続々と集まる 中岡慎太郎・坂本龍馬・岡田以蔵

もちろん、「土佐勤王党」の目的は「尊王攘夷」です。
最終的に約190名もの党士が所属する一大勢力となりました。
この「土佐勤王党」をリーダーとして率いたのが、武市半平太だったのです。

武市半平太と坂本龍馬の関係性

ここで、武市半平太と坂本龍馬の関係性について少しだけ説明します。
2人は親戚で、幼馴染の間柄です。
龍馬は幼い頃から7歳年上の武市半平太を兄のように慕っていました。
ちなみに、武市のあごが長かったため、龍馬は武市のことを「アギ(あごのこと)」と呼んでいたそうです。

土佐三志士像(高知駅前) 武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎

しかし、2人の性格は真逆です。
龍馬は自由奔放で明るい性格ですが、武市は真面目で実直な性格。
龍馬は武市のことを「窮屈なことばかりいう」と言い、武市は龍馬のことを「法螺(ほら)ばかり吹いている」と言っていました。

とはいえ、2人の仲は良好で、お互いを信頼し合っているからこそ、まるで兄弟のように本音で語り合うことができたのでしょう。

だから、武市が結成した「土佐勤王党」に龍馬が参加するのは当然の流れだったし、その後も武市についていくつもりでした。
この頃までは…。

武市が日本国を動かし始める!

その後、「土佐勤王党」の動きが少しずつ過激になっていきます。
1862年、武市は土佐藩の参政・吉田東洋(よしだ とうよう)暗殺を決断し、「土佐勤王党」の党士を刺客として送り込み、吉田東洋を暗殺します。
吉田東洋は「佐幕派」で、武市は吉田東洋を「尊王攘夷派の敵」とみなし、暗殺を決行したのです。

※「佐幕派」とは、江戸幕府を補佐するという意味で、江戸幕府を中心に政治を行なっていくという考え方で、天皇中心の政治を実現しようとする「尊王攘夷派」とは敵対していました。

武市は土佐藩の参政・吉田東洋を暗殺! ジョン万次郎が撮影したであろう吉田東洋の肖像写真 吉田東洋暗殺の地(高知市)

これにより、武市は政治の表舞台に躍り出て、土佐藩の藩政を掌握するまでになります。
武市は土佐藩全体を「一藩勤王化(土佐藩全体で勤王活動を行なうこと)」に導こうとします。

また、藩政を掌握した武市は、藩主・山内豊範(やまうち とよのり)を擁して京都に上洛し、「他藩応接役」という役職を授かり、大活躍しました。
同時に、幕府に対して攘夷実行(外国人を打ち払うこと)を命じる勅使派遣のために、朝廷工作を行ない、これを成功させます。
一介の武士である武市が、遂に朝廷を… いや、日本国を動かし始めたのです。

武市の人生を振り返ると、この頃が絶頂期でした。
その後はまるで坂道を転げ落ちるように転落していくのですが…。

武市半平太と坂本龍馬の別れ

このように、武市と「土佐勤王党」は華々しい活躍を見せていましたが、その裏では「天誅」と称して各地の「佐幕派」を暗殺する活動を行なっていました。
武市は、後に「幕末の四大人斬り」と呼ばれる岡田以蔵や田中新兵衛(たなか しんべえ)などに指示して「佐幕派」の暗殺を繰り返していきました。

その頃、坂本龍馬は「土佐勤王党」を抜け、土佐藩を脱藩します。
「土佐勤王党」の方向性についていけなくなったからです。

龍馬は「土佐勤王党」を抜け、土佐藩を脱藩! 維新の門(龍馬脱藩の道)(高知県)

龍馬の裏切りを「土佐勤王党」の党士たちは非難しましたが、武市は「龍馬は土佐におさまりきらない人物だから脱藩は仕方のないこと」と言い、かばったそうです。

再び「佐幕派」が実権を握り、「土佐勤王党」への弾圧が始まる

しかし、時代は再び急変します。
武市が吉田東洋を暗殺した翌年の1863年、「八月十八日の政変」が起こります。

「八月十八日の政変」とは、「佐幕派」がそれまで優勢であった長州藩などの「攘夷派」を京都から追放した事件です。
これにより、中央では「佐幕派」が政治の実権を握り、公武合体(天皇と幕府が協力して政治を行なうこと)の機運が高まっていきます。

「八月十八日の政変」により三条実美、錦小路頼徳ら「七卿」と長州藩兵は長州に落ち延びる

すると、土佐藩でも異変が起きます。
「佐幕派」で、土佐藩の前藩主である山内容堂の謹慎が解かれ、土佐に帰郷して藩政に返り咲いたのです。
そして、武市ら「土佐勤王党」への弾圧を始めます。

山内容堂が「土佐勤王党」を弾圧 山内家の居城・高知城

武市や「土佐勤王党」の党士は次々に投獄されました。
武市は上士なので拷問はされませんでしたが、武市以外の党士は強烈な拷問に遭い、岡田以蔵の自白によって、武市が吉田東洋の暗殺に関わっていたことが判明しました。
これにより、山内容堂は武市に対して「君主に対する不敬行為」という罪状「切腹」を命じます。

ちなみに、武市以外の党士のほとんどが斬首で処刑されました。
一方、武市は「切腹」を命じられました。
その理由は、武市の身分が高かったため、山内容堂は武士の名誉ある最期の死に方である「切腹」を命じたのです。

壮絶な「三文字切腹」

山内容堂から切腹を命じられた武市は、1865年「三文字切腹」で、享年37歳(満35歳)で生涯を閉じました。

壮絶な「三文字切腹」 「お~い!竜馬」(小山ゆう)より

「三文字切腹」とは、文字通り、腹を三の字のように横に三回切る切腹の方法です。

一般的な切腹は刀で腹を切り裂きますが、その回数は一回で、頃合いを見計らって介錯人が首を切り落とします。
ただ、一回で絶命することは少ないようで、刀を腹に突き立てるのは作法であり、実際は介錯人により命を絶つというのがほとんどでした。

それに対して、武市の「三文字切腹」は刀を三回腹に突き立てるもので、常人には耐えられないほどの想像を絶する苦痛を伴います。
しかし、武市は切腹だけで命を絶つ道を選んだのです。

「三文字切腹」は壮絶で、検視役の袴が血に染まったほどでした。
最終的には介錯人により絶命したようですが、切腹の仕方も武市の実直な性格が表れているような気がします。
そして、この衝撃的な最期が武市を後世に名を残す要因の1つになったのは間違いありません。

↓こちらが武市の辞世の句です。

ふたたびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり

「再び返ることのない歳月をはかないと思ったこともあったが、(今から死ぬのだから)もう過去のことは惜しまない身の上になってしまった」という意味です。
「歳」を「歳月」と捉えるか「年齢」と捉えるかは、意見のわかれるところですが、両方の意味が込められているのかもしれません。

武市の妻・島村富子のその後

武市半平太は20歳の時に島村富子(しまむら とみこ)と結婚しました。
富子は献身的に武市を支え続けました。
武市が投獄されると、冬は布団をかけずに板の間で眠り、夏は蚊帳をつけずに眠りました。
夫である武市と同じように、厳しい環境を自らに課したのです。

一方、武市も富子に手紙を送り続けました。
手紙には、牢屋の間取りや牢番の姿まで描かれていますし、多くの手紙が冨の元へ届いていることからも、武市に協力的な牢番も少なくなかったようです。

 武市が妻・富子に送った手紙 手紙には牢屋の間取りや牢番の姿まで描かれている

その後、武市が亡くなると、富子は士族籍を剥奪された上に家禄を没収され、貧しい生活を余儀なくされます。

しかし、明治10年に特旨が出て、武市の名誉が回復します。
当時、宮内大臣となっていた元土佐勤王党の田中光顕(たなか みつあき)らによって、富子に援助の手が差し伸べられたのです。

富子に援助の手が差し伸べられた 田中光顕 晩年の富子

富子は明治42年に東京に転居しますが、その3年後には養子である武市半太(たけち はんた)と共に土佐へ帰郷し、余生を過ごし、大正6年に88歳で亡くなりました。
半太は医師免許を得て開業し、富子の晩年を支えたそうです。

ちなみに、中央大学法学部教授であった武市楯夫氏は生前、自身が半太の子であることを公言していたといわれています。

武市半平太と富子の墓 2人は天国で仲良く暮らしているだろう

土佐藩が新政府の中で確固たる地位を築くことができなかった理由

その後、再び社会情勢は変化します。
長州藩と薩摩藩が手を結び(=薩長同盟)、「倒幕派」がその勢いを増します。

そこで、「佐幕派」の山内容堂は、土佐藩士・後藤象二郎と共に「大政奉還(幕府が政権を朝廷に返上し、朝廷を中心とした連合政権をつくるという案)」を建白し、これが実現します。

後藤象二郎の働きにより「大政奉還」が実現!

ところが、薩長は新政府を樹立し、倒幕に成功します。
その後、幕府側と見られていた山内容堂は新政府と対立し、明治政府では活躍の場を与えられることはありませんでした。

また、明治維新において、長州藩と薩摩藩からは有能な人材が次々に出てきましたが、土佐藩には有能な人材があまりいませんでした。
山内容堂自ら、武市や「土佐勤王党」に属していた有能な人材を弾圧したからです。

これにより、土佐藩は新政府の中で確固たる地位を築くことができませんでした。
自らの判断が間違っていたと感じたのか、山内容堂は後年、武市半平太を切腹に追い込んだことを後悔していたそうです。

まとめ(超個人的見解)

武市半平太が「切腹」でその生涯を閉じたのは1865年で、その3年後に明治維新が実現します。
何らかの方法で武市があと3年生き延びていたら、新政府の中心的存在になっていたような気がします。

武市の弟分である坂本龍馬は、人生の中で多くの困難がありましたが、それらをうまい具合にすり抜けていくことができる自由人でした。
しかし、武市の性格は龍馬と真逆。
投獄されていた武市に協力的な牢番も多かったので、もう少し武市の性格が柔らかければ「脱獄」することもできたでしょう。
そうやって命をつないで、社会情勢が変化する時を待てば良かったのです。

しかし、武市は脱獄をしませんでした。
そして、山内容堂が命じた切腹を「武士の誉れ」として「三文字切腹」を行ないました。

結果的に武市は土佐藩の中だけでその波乱の人生を終えました。
戊辰戦争や新政府樹立など、中央での活躍はありませんでした。
しかし、彼の実直な生き方と壮絶な死に様が、明治維新の志士たちの心の中に小さな炎を灯したことは間違いないでしょう。

武市の実直な生き方と壮絶な死に様が明治維新志士たちの心に小さな炎を灯した

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