徳川家茂の感動エピソード|戸川安清・和宮への優しさと悲劇の生涯

歴史ミステリー(江戸・幕末編)

徳川家茂の感動エピソード|戸川安清・和宮への優しさと悲劇の生涯

江戸幕府、第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)といえば、皇女・和宮(かずのみや)と結婚したことで有名な将軍です。

和宮との夫婦仲は良好で、家茂はとても心優しい将軍でした。
そんな家茂の生涯と感動エピソードを紹介します。

書道家・戸川安清との感動エピソード

家茂は、書道家の戸川安清(とがわ やすずみ)から書道を習っていました。
家茂はとても良い生徒で、いつも真面目に書道を習っていました。

そんなある日、戸川が墨をすっている時、家茂は彼の頭の上から硯の水をかけ、「今日はこのまま帰って、明日また来るように」と伝えたそうです。

書道家の戸川安清との感動エピソード 戸川安清の書

いつの時代でも権力者は時に異常な行動を起こすものです。
屈辱的な扱いを受けた戸川は体を震わせながら涙を流しました。

その様子を見て心配した周囲の側近たちが戸川に駆け寄り、「殿のご乱心ゆえ、気にするな」と慰めたのですが、家茂が水をかけたのには理由がありました。
70歳を過ぎていた高齢の戸川は、家茂に書道を教えている際に失禁をしていたのです。
そのことに気づいた家茂は、戸川の失禁を隠すために、わざと戸川の頭の上から水をかけたのです。

戸川は周りの側近たちにこう言いました。

「私は歳をとってしまったために、ふとしたはずみで失禁をしてしまったのです。将軍様の前で失禁をするなど、厳罰は逃れられぬ失態。しかし、将軍様は私に水をかけて失禁を隠してくださった。そんな配慮をしてくださる将軍様の優しさが嬉しくて泣いているのだ」

戸川の罪を隠すために異常と思える行動をとり、「明日また来るように」と伝えた家茂の優しさを物語るエピソードですね。

国を越えた感動エピソード

家茂の心優しいエピソードは他にもあります。
当時、フランスやイタリアで蚕の伝染病が流行し、養蚕業が壊滅状態となっていました。

そのことを知った家茂は、農家から蚕の卵を買い集めて、フランスのナポレオン3世に寄贈します。
そして、ルイ・パスツールやジャン・アンリ・ファーブルらがこの卵を元に品種改良を行ない、病気を克服したという逸話が残っています。

家茂の愛はフランスやイタリアにも ルイ・パスツール ジャン・アンリ・ファーブル

そんな心優しい徳川家茂は、どのようにして将軍になったのでしょうか?
家茂の生涯を追ってみましょう。


わずか4歳で紀州藩13代藩主に就任

1846年、家茂は紀州藩の江戸藩邸で生まれました。
父親は第11代紀州藩主の徳川斉順(なりゆき)ですが、家茂が生まれる2週間ほど前に死去してしまいました。
その後、紀州藩の家督は叔父の徳川斉彊(なりかつ)が継承しますが、1849年には斉彊も亡くなります。
そこで、家茂は斉彊の養子となり、わずか4歳紀州藩13代藩主に就任することになりました。

家茂はわずか4歳で紀州藩13代藩主に就任 和歌山城

結果的に、家茂が紀州藩主だった期間は9年2ヶ月ですが、この間に江戸を離れることはなく、自らの領地に赴く「お国入り」は一度もありませんでした。

政治抗争の流れによって、江戸幕府・第14代将軍に就任

その後、江戸幕府・第13代将軍である徳川家定(いえさだ)に子供がいなかったため、将軍継嗣問題(次の将軍を誰にするか?という問題)が勃発します。

幕府内では、水野忠央、井伊直弼らの「南紀派」と、一橋慶喜を擁立する徳川斉昭、島津斉彬らの「一橋派」に分かれて対立します。
「南紀派」は次の将軍に家茂を推挙しました。

幕府内で「南紀派」と「一橋派」が対立! 水野忠央・井伊直弼・徳川斉昭・島津斉彬

そして1858年、井伊直弼大老に就任したことで「南紀派」が勝利し、家茂は生まれつき病弱な身でありながら、13歳江戸幕府・第14代将軍に就任することになりました。
本人の意思というよりも、政治抗争の流れによって将軍になった印象が強いですね。

しかしその後、家持はさらに時代の波に翻弄されていきます。

幕府を救うために、皇女・和宮と政略結婚

時代は江戸末期。
社会情勢は日々変化し、世の中は混乱していました。
遂には、長州藩を中心とする尊王攘夷志士たちが倒幕(幕府を倒すこと)を表明するようになります。

そこで、幕府は皇室との結びつきを強化するために「公武合体政策(朝廷と幕府とが一致団結して政治をしようという構想)」を行ないます。
そして、幕府と皇室の結びつきを世の中に広く印象付けるために行なわれたのが、家茂と皇女・和宮の政略結婚です。

皇女・和宮は孝明天皇の異母妹で、当時既に有栖川宮熾仁親王と婚約していたため、当初、和宮は「降嫁」に猛反対しました。

余談ですが、和宮はとてもキレイで、有栖川宮熾仁親王とてもイケメンですね。
お二人が結婚していたら、絶世の美男美女カップルが誕生したことでしょう。

しかしその後、「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺され、幕府はさらに弱体化していきます。
そこで、幕閣たちが何度も皇室と交渉した結果、孝明天皇は幕府が「攘夷(外国人を打ち払うこと)」の実行や、大奥でも和宮が御所風の暮らしを貫くことなどを条件に、和宮を降嫁(こうか=皇女や王女が皇族・王族以外の男性に嫁ぐこと)させることを認めました。

苦悩する和宮の心を救ったのは家茂だった

しかし、実際に大奥に入った和宮は、降嫁の条件であった「御所風の暮らし」を送ることを許されず、姑(家定の正室)である天璋院篤姫(てんしょういん あつひめ)との関係もうまくいきませんでした。

日々、苦悩する和宮…。
そんな失意のどん底にいた和宮を救ったのは、家茂でした。
2人の夫婦仲は良好で、家茂は側室を持つことなく、少しでも時間があれば和宮のもとに足を運んでかんざしや金魚を贈り、雑談を楽しんだそうです。

それまで皇室の中だけで育ってきた和宮にとって、江戸も大奥も理想とはかけ離れた場所だったでしょう。
でも、そこにひと筋の光明を見つけることができました。
それこそが、家茂の存在でした。

孝明天皇や勝海舟の出会い

1863年、家茂は公武合体政策のために、約3,000人の将兵を率いて京都へ上洛しました。
征夷大将軍の上洛は、第3代将軍・家光以来、229年ぶりのことでした。

家持は3月7日に参内し、孝明天皇に対面して、「攘夷の決行」を約束します。
孝明天皇は、妹婿(家持)の誠実さを喜び、信頼を深めます。

孝明天皇は家持に信頼を寄せる

また、家茂が幕府の軍艦「順動丸(じゅんどうまる)」に乗って大坂湾を視察した際、順動丸を指揮する勝海舟から軍艦の説明を受け、その重要性を瞬時に理解したそうです。

さらに、勝海舟は家茂に対して「軍艦操練所の設立」を願い出たところ、家茂はその場で許可しました。
この家茂の決断によって神戸海軍操練所が誕生し、ここで坂本龍馬らが学び、日本海軍の母体となっていくのです。

勝海舟は軍艦「順動丸」で家茂と出会い、その人柄に惚れ込んだ

また、家茂は後に上洛するために海路を用いた際、海が荒れていることから家臣らは陸路をすすめたのですが、「海上のことは軍艦奉行(勝海舟)に任せよ」と断言したそうです。
この言葉に感動した勝海舟は、生涯、家茂を慕い続けました。

死ぬ間際まで心優しかった家茂の最後のエピソード

1866年、家茂は第二次長州征伐に向かう途中、大坂城で病に倒れ、7月20日に急死します。
20歳の若さでした。

訃報を聞いた勝海舟は自身の日記に「家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ」(家茂様が亡くなり、本日、徳川家は滅んだようなものだ)と記しており、家茂の存在の大きさが伝わります。

家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ

第二次長州征伐に出発する際、家茂は和宮に対して「凱旋の土産は何がいいか」と質問し、和宮は西陣織と答えました。
この西陣織は家茂から直接手渡されることはありませんでしたが、家茂の死後、形見の品として和宮に届けられます。

和宮はその西陣織を「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」と詠んだ歌を添えて増上寺に奉納。
その後、この西陣織は袈裟として仕立てられたことから、現在では「空蝉(うつせみ)の袈裟」と呼ばれています。

家茂の形見は「空蝉の袈裟」と呼ばれ、現代に残る

死ぬ間際まで心優しかった家茂の最後のエピソードです。

まとめ(超個人的見解)

家茂の死後、徳川(一橋)慶喜が15代将軍に就任し、日本は明治維新へ突き進むことになります。
家茂は、「南紀派」と「一橋派」の対立によって将軍に就任したわけですが、この対立がなければ、家茂が将軍になることはなく、平穏な暮らしを送っていたような気がします。

しかし、時代の流れによって、家茂は将軍となり、公武合体政策のために政略結婚をし、最終的に第二次長州征伐に向かう途中で亡くなってしまいます。
まさに、時代の波に翻弄された将軍といえるでしょう。

しかし、病弱の身でありながら、家茂は時代の波に敢然と立ち向かっていきました。
和宮と家臣たちに愛情を与えながら、第二次長州征伐に向かっていったのですから。
これほど家臣たちに愛された将軍は他にはいないでしょう。

また、家茂が病弱でなかったら、その後の日本の歴史は大きく変わっていたと思います。
人格者である家茂が将軍として強く指導をすることで幕府は再び蘇り、最終的に長州藩ら討幕派の心も掴み、日本国が一枚岩になっていたかもしれません。
そうなると、その後の明治維新や戊辰戦争もなかったかもしれません。

聡明な家茂は先進国に学び、幕府制度を取りやめて、新政府の中心になっていたことでしょう。

家茂が生きていたら新政府の中心になっていたはず!

家茂の生涯を振り返った時、そのようなことを感じざるを得ません。

タイトルとURLをコピーしました