「弁慶の立ち往生」弁慶と牛若丸(源義経)のお話を徹底解説!
弁慶と牛若丸のお話は「まんが日本昔ばなし」などで有名ですよね。
登場人物の「牛若丸」は、源平合戦で大活躍した源義経(みなもと よしつね)のことです。
(「牛若丸」は義経の幼名です)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟としても有名ですね。
この弁慶と牛若丸のお話は、中世の軍記物語「義経記」に出てきます。
まず、具体的な物語を説明します。
乱暴者の弁慶は1,000本の太刀を奪う(集める)計画を立て、毎晩、京の都で道行く人を襲っては太刀を奪い取り、999本と「残り1本」に迫っていました。
「いよいよ1,000本目の太刀が集まる!」と、弁慶はある日の夜、五条天神に出かけ、「どうぞ良い太刀を授けてください」と神様に願掛けをしました。
すると、五条大橋を横笛を吹きながら通る牛若丸(源義経)と出会います。
牛若丸は白い狩衣を身にまとい、腰にはいかにも高価そうな太刀を携えています。
しかし、牛若丸の顔はまるで女の子のように色白で、背は低く(5尺程度…約151.5センチ)、見るからに弱々しい印象です。
「今日はついているぞ。あの若武者が記念すべき1,000本目の標的だ!」と、弁慶は牛若丸に襲いかかりました。
しかし、牛若丸は弁慶の攻撃をヒラリとかわしながら欄干を飛び交い、最後は返り討ちにします。
この技は、鞍馬天狗(くらまてんぐ)直伝の六韜(りくとう)という秘術です。
降参した弁慶は心を入れ替え、牛若丸の家来となり、平家打倒に尽力しました。
このお話は、体の小さな牛若丸が、巨体で乱暴な弁慶を退治することから、「柔よく剛を制す」を表すエピソードとして人々に好まれてきました。
ちなみに、牛若丸が吹いていた横笛は、源義光(みなもと よしみつ・義経の先祖)伝来のもので、その後義経は、この笛を駿河国の久能寺に奉納したそうです。
現在も義経の「薄墨の笛(うすずみのふえ)」とされる横笛が伝えられています。
弁慶と牛若丸の物語は作り話? 弁慶は本当に実在したの?
この弁慶と牛若丸のお話を聞くと「作り話では?」と感じる方が多いと思います。
また、牛若丸(源義経)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟なので実在していますが、弁慶は本当に実在した人なの?という疑問を感じる人も多いと思います。
その答えは…
実在した人物です。
その証拠に、「平家物語」や「義経記」、鎌倉時代の正史にあたる「吾妻鏡」など、複数の書物に「弁慶」の名前は出てきますし、源平合戦の1つである「一の谷の戦い」にも参戦していることがわかっています。
ただ、その出自や功績など詳細はほとんどわかっていません。
「乱暴者」などのイメージはかなり脚色されている可能性が高いですね。
また、弁慶と牛若丸の物語が記された「義経記」は、義経らが亡くなってから200年も後に完成した書物ですから、この時点で既にかなり脚色されている可能性は高いと思われます。
ちなみに、弁慶の幼少期には驚きのエピソードがあります。
弁慶は母親の胎内に18ヶ月いて、生まれた時には2~3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生え揃っていました。
父親は「これは鬼子だ」と考え、殺そうとしましたが、叔母に引き取られて「鬼若」と命名され、京で育てられたそうです。
このあたりのエピソードも完全に創作されたものでしょう。
弁慶と牛若丸が出会った「五条大橋」は間違い!?
弁慶と牛若丸が出会った「五条大橋」(京都市)ですが、これは間違いという説があります。
2人が出会ったのは1170年頃の話で、現在の「五条大橋」が完成したのは1589年頃のこと。
かなり年代に開きがありますよね。
厳密には、当時の「五条大橋」は、現在の「松原橋」がある場所に存在していました。
その後、移築して現在の場所に「五条大橋」がつくられました。
だから、厳密にいうと「旧五条大橋」が正しい表現ですね。
弁慶と牛若丸は2回出会っていた!?
冒頭で説明した「弁慶と牛若丸のお話」は、2人が五条大橋で出会い、負けた弁慶が義経の家来になったというストーリーでしたが、実は「義経記」に記されている物語は少し異なります。
「義経記」では、牛若丸と弁慶の出会いは2回あったと記されているのです。
1回目は「五條天神」という神社で、2回目は「清水観音(清水寺)」です。
実際は2回出会っていたけれど、お話をつくる上で簡略化されたのでしょう。
そこで、「弁慶と牛若丸が2回出会った物語」を解説します。
1回目の出会いは、冒頭で説明した物語とほぼ同じです。
異なる部分は「五条大橋」ではなく「五條天神」で出会ったことと、牛若丸に負けた弁慶はそのまま帰り、家来にならなかったことです。
それでは、「1回目の出会い」の続きを解説しましょう。
1回目の出会いで返り討ちに遭った弁慶は、名案を思いつきます。
「今日は清水寺の縁日だから昨日の男が来るにちがいない」
そこで、弁慶は薙刀を携えて清水寺の門の前で待ち伏せをすることにしました。
すると、弁慶の予想通り、牛若丸がやってきました。
弁慶は牛若丸に襲いかかりました。
しかし、弁慶の攻撃はまたもやヒラリとかわされてしまいます。
軽い足取りで清水寺の中に逃げ込む牛若丸と、追いかける弁慶。
2人が行き着いた場所は清水寺の本堂にある清水の舞台でした。
弁慶が渾身の一撃を浴びせようと襲い掛かりますが、牛若丸はヒラリと欄干(らんかん)に飛び上がり、薙刀が宙を舞い、その切っ先に飛び移った牛若丸はそこからさらに飛び上がりました。
牛若丸の華麗な技に呆気にとられる弁慶。
その弁慶の顔を、牛若丸は扇で叩き、目にも止まらぬ速さで取り押さえました。
さすがの弁慶も「牛若丸には敵わない」と降参し、「あなたこそ私が仕えるべき人です。どうか私を家来にしてください」と両膝をつき、額を地面に擦り付けてお願いしました。
結論は同じですが、「清水の舞台」のほうが「五条大橋」よりもスリリングで、絵になりますね!
「義経記」の内容と現代人が知っている物語に相違点がある理由
このように、「義経記」に記載されている内容と、私たち現代人が一般的に知っている物語にはいくつかの相違点があります。
なぜ、そのようなことが起こったのか?といいますと、明治を代表するお伽噺(おとぎばなし)作家の巌谷小波(いわや さざなみ)が書いた「日本昔噺(ばなし)」が大きく影響しています。
「日本昔噺」は全24編のシリーズ物で、現代の私たちがよく知っている子供向けの昔話や伝説の多くは、この「日本昔噺」シリーズが元となっています。
そして、「日本昔噺」シリーズの第23編が「牛若丸」で、この物語では牛若丸と弁慶が「五条大橋」で出会ったことになっており、これが広く知れ渡ることとなりました。
ちなみに、弁慶が1,000本の太刀を集めたものの、あと1本で奪いそこねるという話は仏教寓話にも似たものがあります。
唱歌「牛若丸」
次に、唱歌「牛若丸」を紹介します。
京の五条の橋の上
大のおとこの弁慶は
長い薙刀ふりあげて
牛若めがけて切りかかる
牛若丸は飛び退いて
持った扇を投げつけて
来い来い来いと欄干の
上へあがって手を叩く
前やうしろや右左
ここと思えばまたあちら
燕のような早業に
鬼の弁慶あやまった
この歌は、1911年に文部省から刊行された「尋常小学唱歌」に初めて登場しました。
作詞・作曲者は不明です。
弁慶と牛若丸の感動物語「勧進帳」
その後、弁慶と牛若丸は打倒・平家を果たします。
ところが、源平合戦で大活躍した義経のあまりの強さに、兄・源頼朝から警戒されるようになります。
そして、遂に頼朝が「義経・追討令」を出します。
京都から逃亡することになった義経と弁慶は、平泉(岩手県)を目指します。
その途中、加賀国(石川県)の関所・安宅の関(あたかのせき)に山伏の姿に変装した義経一行が現れます。
関守である富樫泰家(とがし やすいえ)はこの一行を不審に思いました。
そこで、弁慶は勧進帳(という巻物)を読み上げることで、関所を通ることが許されました。
ところが、実は巻物は真っ白で何も書かれていません。
機転を利かせた弁慶が、真っ白の巻物をまるで本物の勧進帳のように読み上げることで危機を脱したのです。
ところが、一行の後列にいた義経を見て、富樫は再び疑念を抱きます。
すると、弁慶が突然怒り出しました。
「お前が義経に似ているばかりにいらぬ疑いをかけられた!」と言いながら、金剛仗で義経を叩き始めたのです。
弁慶があまりにもすごい剣幕で義経を叩くのを見かねた富樫は、慌てて弁慶を止めに入り、「これで疑いは晴れた」と言って関所を通過することを許可しました。
その後、弁慶は義経に涙を流しながら詫びます。
危険な状況だったからとって、主君に手を挙げたことを泣きながら詫びたのです。
しかし、義経は弁慶に対して「真の忠義だ」と言って褒め称えました。
そこに富樫が「先ほどの非礼を詫びたい」と言って酒を持ってきました。
すると、弁慶がそれを受けて舞を披露しました。
弁慶が舞を披露して時間を稼いでいる間に義経らは先を急ぎ、弁慶は舞い終わると義経の後を追いかけました。
実は、富樫は彼らが義経一行であることをとっくに見抜いていましたが、弁慶の忠義の心に打たれて、わざと見逃したのです。
この物語はその後、歌舞伎の演目「勧進帳」となり、現代においても大人気の演目となりました。
「弁慶の立ち往生」
弁慶には他にも逸話が残されています。
ようやく平泉にたどり着いた義経一行は、奥州で一大勢力を誇っていた藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に匿ってもらっていましたが、秀衡が亡くなると、息子の泰衡(やすひら)が当主になり、義経との関係が悪化します。
そこで、頼朝が泰衡に義経を討つように命じます。
泰衡は頼朝の命令に背くことができず、義経に攻撃を仕掛けます。
少人数の義経一行は防戦一方。
追いつめられた義経は衣川の館(ころもがわのたて)にこもって最期の時を迎えます。
この時、義経が自害する時間をかせぐために、1人で館の前に立って戦ったのが弁慶でした。
「敵に主君の首を取らせるわけにはいかない!」
決死の覚悟で戦う弁慶は、全身に矢が刺さった状態でも戦い続けました。
泰衡軍はどれだけ矢が刺さっても死なない弁慶に恐怖感を感じますが、実は弁慶は目を見開いたまま、立ったまま絶命していたのです。
この逸話から「弁慶の立ち往生(=亡くなる)」という言葉が生まれました。
「弁慶の泣き所」
「弁慶の泣き所」という言葉がありますよね。
これは、人間が一番弱いところである「向う脛(ずね)」を指します。
弁慶ほどの豪傑でも、蹴られれば痛がって泣く急所の意味から、「向う脛(ずね)」を「弁慶の泣き所」と称するようになりました。
まとめ(超個人的見解)
「まんが日本昔ばなし」や子供向けの絵本では「牛若丸」というタイトルのものが多く、どちらかというと牛若丸(源義経)のほうが主役である印象がありますが、2人の人生を紐解いていくと、弁慶の人間性に魅力を感じてしまう人が多いのではないでしょうか。
乱暴者だった弁慶が、義経の臣下になり、その後はひたすらに忠義を尽くす姿が心を揺さぶります。
そんな弁慶は、実は義経と京都で別れてそれっきりだったという説もあります。
そうなると、「勧進帳」の話も「立ち往生」の話もなくなってしまうわけですが…。
ちなみに、義経にも多くの伝説があります。
平泉で死んだとされる義経ですが、実は国外に逃げ延びて、チンギスハンになったという驚きの説もあるのです。
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なぜ、義経と弁慶にはこのような伝説が多いのでしょうか?
それは、後世の人々が彼らに大きな魅力を感じていたからだと思います。
弁慶は最後まで義経の忠臣であってほしい!
義経はもっと長く生き残ってほしかった!
そんな願望が多くの伝説を残したのでしょう。
日本史の中には多くの魅力的な偉人が登場しますが、なかでも彼らはトップクラスの輝きを放った偉人といえるでしょう。