幕府(武士)と戦った3人の天皇|後鳥羽上皇・後醍醐天皇・神武天皇

幕府(武士)と戦った3人の天皇|後鳥羽上皇・後醍醐天皇・神武天皇 歴史ミステリー(その他)

幕府(武士)と戦った3人の天皇

現代人の私たちの「天皇」のイメージは、日本国の象徴であり、私たち日本人を見守ってくれている存在だと思います。

しかし、長い日本の歴史の中では幕府や武士と戦った天皇が存在します。
まさに、戦う天皇です!
そんな3人の戦う天皇を紹介します。

その1 後鳥羽上皇VS鎌倉幕府(北条一族)

①後鳥羽上皇VS鎌倉幕府(北条一族)

1192年、源頼朝が征夷大将軍となり開かれた鎌倉幕府ですが、頼朝はわずか7年後に落馬が原因で亡くなってしまいます。

その後、頼朝の長男である源頼家(みなもとのよりいえ)が2代将軍に、次男の源実朝(みなもとのさねとも)が3代将軍になりますが、この頃から実質的な権力は北条一族が握りはじめます。

鎌倉幕府は実質的に北条一族が支配していた

天皇の血を引く源氏が鎌倉幕府のトップになることは理解できるけれど、一御家人である北条氏が幕府のトップに立つことを快く思っていなかった後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を倒す準備を始めます。

まず、後鳥羽上皇は3代将軍・源実朝に近づき、自分の娘と結婚させるなどして友好関係を結ぶことで、幕府をコントロールしようと考えました。

さらに、後鳥羽上皇は元々あった北面の武士(ほくめんのぶし)に加えて、西面の武士(さいめんのぶし)という武士集団を設置するなどして軍事力を強化した上、それまで分散していた天皇領をまとめて資金力も強化していきます。

このようにして、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒す準備を着々と進めていきました。

後鳥羽上皇は討幕の準備を始める

その後、3代将軍・源実朝が甥の公暁によって暗殺され、その公暁も暗殺されてしまい、源頼朝から続いた源氏による征夷大将軍は3代で終わりを告げました。
ここで遂に、後鳥羽上皇は打倒・鎌倉幕府を決断します!

武士の結束力を高めた北条政子の演説

1221年、後鳥羽上皇は、北条一族のリーダー格である北条義時追討の院宣(いんぜん=上皇の命令という意味)を出します。

「朝廷軍が攻めてくる!」
さすがの幕府軍も恐れましたが、ここで源頼朝の妻であり、北条義時の姉の北条政子(ほうじょうまさこ)が兵士たちの前で演説を行ないます。
その演説の内容は↓こちらです。

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。

わかりやすく解説すると↓このような意味です。

今は亡き源頼朝は鎌倉に幕府を開いて以来、官位といい俸禄といい、その御恩は山よりも高く、海よりも深い。
この御恩に対する感謝の気持ちはどれぐらい深いことでしょうか?
しかし、後鳥羽上皇から道理には合わない北条義時を討伐せよという院宣が出てしまいました。
名誉を重んじる者は三代にわたる将軍のあとをしっかり守ってください。

この北条政子の演説によって、鎌倉幕府の武士たちは結束力を高めます。

遂に、天皇VS幕府の「承久の乱(じょうきゅうのらん)」が勃発!

演説の3日後、北条義時の長男である北条泰時(ほうじょうやすとき)を総大将とした幕府軍は京都に向けて進軍を開始します。
遂に、天皇VS幕府「承久の乱(じょうきゅうのらん)」が勃発しました。

天皇VS幕府の「承久の乱」が勃発!

しかし、実はこの時、北条泰時は悩んでいました。
後鳥羽上皇とどのように戦えばいいのかを。
そこで、父・北条義時に尋ねたところ、義時は次のように答えました。

「上皇の御輿(みこし)に弓を引いてはいけません。その時は兜を脱ぎ、弓の弦を切って降伏しなさい。そして上皇にその身をまかせなさい。しかし、上皇が京の都においでになって、戦場にいらっしゃらなければ戦いなさい!」

父のこの言葉によって吹っ切れた泰時はその勢いで京都に向かい、朝廷軍と対峙します。
幸いなことに、後鳥羽上皇は戦場に出てきませんでした。

朝廷側の大将は藤原秀康(ふじわらのひでやす)で、この時京都に滞在していた三浦胤義(みうらたねよし)も朝廷軍として参戦しました。

岐阜県美濃加茂市に残る承久の乱古戦場跡・大井戸渡

しかし、戦いは幕府軍の圧勝。
わずか1ヶ月で後鳥羽上皇は敗北となりました。

敗れた後鳥羽上皇は隠岐の島(島根県)に島流し

敗戦した後鳥羽上皇は隠岐の島(島根県)島流しとなります。
それ以外にも、倒幕の計画に関わった順徳上皇は佐渡島に、土御門上皇は土佐に流されました。
その他、上皇方の貴族たちも流罪や死刑となりました。

隠岐の島(島根県)に残る後鳥羽天皇火葬塚

ここで北条氏は皇室を処分して自らの一族が日本のトップに君臨することもできましたが、皇室を残す決断をします。
皇室を残したほうが国内の戦乱がなくなり、安定すると思ったからです。

もしここで北条氏がトップに立ったとしても、いつか必ず力を持った誰かが北条一族を倒すはず。
それなら「皇室=日本のトップ」という図式を残したほうが危険性がないと考えたのかもしれません。
この決断によって、皇室は現代に続いているわけですから、北条氏の大英断といえるでしょう。

そして、「承久の乱」で勝利を収めた鎌倉幕府は、今後朝廷が不穏な動きをしないように六波羅探題(ろくはらたんだい)をという、鎌倉幕府の出先機関を設置します。

京都府東山区に残る六波羅探題府跡

このようにして、武家政権はさらに盤石なものとなり、「その後の日本の実質的なリーダー=武士」という構図が出来上がり、これが江戸幕府まで続くことになりますから、日本の歴史の中でも「承久の乱」はかなり大きな転換点といえます。

隠岐の島で一生涯を送った後鳥羽上皇

「承久の乱」で勝利を収めた鎌倉幕府は、その後、北条義時の長男・北条泰時が日本初の武家法である御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定するなどして、その基盤を盤石なものにしていきます。

一方、島流しとなった後鳥羽上皇は、隠岐の島で一生涯を送ります。
後鳥羽上皇が隠岐の島で詠んだ和歌が↓こちらです。

我こそは新島もりよ 隠岐の海の 荒き浪かぜ 心して吹け

わかりやすく解説すると↓このような意味となります。

「私はこの島の新しい島守である。隠岐の海の荒い波風は、心して吹けよ」

一時は京都で日本のトップに君臨していた後鳥羽上皇が「私は隠岐の島の新しい島守である」と言っているのです。
どことなく切ないですね。

ちなみに、鎌倉幕府によって編纂された歴史書「吾妻鏡」では、後鳥羽上皇の行動を「反乱」と記していますが、天皇=日本のトップであることが常識となった明治時代には、北条義時は天皇家に反逆した逆賊であり、後鳥羽上皇は被害者であると語られ、これが現代にも伝わることとなります。

その2 後醍醐天皇VS足利尊氏

②後醍醐天皇VS足利尊氏

こうして鎌倉幕府はその後、約150年間日本のトップとして武家政権を築いていくことになりますが、やがて幕府の権力にも陰りが見え始めます。
いつの時代も政権争いは続くものです。

北条一族の14代執権・北条高時(ほうじょう たかとき)の時代に、当時の天皇である後醍醐天皇倒幕を企てます。
しかし、後醍醐天皇の計画は六波羅探題の察知されてしまい、1332年(後鳥羽上皇と同様)隠岐の島へ島流しとなってしまいます。

愛妻に洩らしたことで討幕計画がばれてしまう

後鳥羽上皇はそのまま隠岐の島で生涯を過ごしましたが、後醍醐天皇はあきらめません。
2年後、隠岐の島を脱出した後醍醐天皇は再び挙兵しました。
まさに不屈の精神ですね!

足利尊氏の裏切りによって、遂に鎌倉幕府が滅亡

そこで、鎌倉幕府は北条氏の家臣であった足利尊氏(あしかが たかうじ)に、後醍醐天皇の反乱を阻止することを命じます。
ところが、尊氏は後醍醐天皇の不屈の精神に感銘を受け、そのまま天皇側につくことを決断します。
幕府を裏切ったのです。

鎌倉幕府を裏切り後醍醐天皇に味方した足利尊氏

尊氏が天皇側についたのには、別の理由もありました。
北条一族が支配する鎌倉幕府は堕落しており、武士たちの間に不満の声が増えていました。
このような理由から、尊氏は後醍醐天皇側についたのです。

足利尊氏&天皇軍は強力で、1333年、鎌倉幕府は滅亡します。
遂に、後醍醐天皇の悲願が成就されたのです。

後醍醐天皇による「建武の新政(けんむのしんせい)」スタート

これにより、いよいよ後醍醐天皇による政治が始まりました。
「建武の新政(けんむのしんせい)」です。

後醍醐天皇が計画した紙幣発行の元となった「元」の紙幣と原版

しかし、しばらくすると武士たちから不満の声が続出します。
皇族や貴族だけが優遇される政治に対する不満です。

また、関東では北条一族の残党が反乱を起こし、その波は関東全体に広がっていました。
そこで、尊氏は自ら征夷大将軍となって関東の反乱を鎮圧することを願い出ますが、後醍醐天皇はこれを認めませんでした。
尊氏を関東に行かせれば、そのまま関東で権力を握り、天皇の脅威となることを恐れたからです。

朝敵(天皇の敵)となって動揺する足利尊氏

しかし、尊氏は天皇の命令に背き、関東へ行って反乱を鎮圧します。
そして、尊氏はそのまま鎌倉にとどまり、武功があった家臣たちに恩賞を与えるなど自立した動きを見せます。
ただ、これは尊氏の意思というよりも、弟の足利直義(あしかが ただよし)高師直(こう もろなお)らの考えを尊重したものでした。

関東の反乱を鎮圧した足利軍

一方、尊氏の行動に違和感を感じた後醍醐天皇は、尊氏に対して召喚命令(京都に呼び出す命令)を出しますが、尊氏は鎌倉にとどまります。
業を煮やした後醍醐天皇は、遂に「尊氏討伐令」を出し、新田義貞(にった よしさだ)を総大将とした討伐軍を関東に送りました。

朝敵(天皇の敵)となってしまった尊氏は動揺し、赦免(しゃめん=過ちを赦してもらうこと)を求めるためにお寺に入って断髪をします。
総大将である尊氏を失った足利軍は、各地で新田義貞の軍に敗れます。

尊氏最大のライバル 新田義貞・楠木正成

そのような状況の中、尊氏の家臣たちは尊氏に戦うことを促します。
また、「たとえ尊氏が赦免を願っても決して許さない」という内容を書いた偽の綸旨(りんじ=天皇からの命令の文書)を作り、これを尊氏に見せます。
すると、尊氏は天皇と戦うことを決意!
足利軍は甦ります。

新田義貞&楠木正成軍に勝利し、遂に室町幕府が開かれる!

その後、尊氏は新田軍を破り、遂に京都へ進軍しました。
これに対して、後醍醐天皇は比叡山に逃げ延びます。
さらに、態勢を立て直した新田義貞楠木正成(くすのき まさしげ)らの軍が足利軍を倒すために京都に進軍してきました。
劣勢となった足利軍は一旦九州に逃げます。

その後、九州で勢力を回復した足利軍は、再び京都へ進軍を開始します。
湊川(現兵庫県神戸市)で新田・楠木連合軍を破り、再び京都に入りました。

この「湊川の戦い」では、楠木正成は自ら考えた戦略を後醍醐天皇に提案しますが、却下されます。
ある意味、尊氏が最も恐れていたのが楠木でしたが、後醍醐天皇は楠木の戦略を却下したのです。
これにより、尊氏の勝利は確定的となりました。

後醍醐天皇は楠木の戦略を却下し尊氏の勝利が確定的となった

なお、ここで負けを覚悟した楠木は、長男・楠木正行(くすのき まさつら)に「帰郷して、父亡きあとも帝のために身命をつくすように」と諭し、今生の別れを告げました。

その後、尊氏が京都に入ると、後醍醐天皇と和睦。
光厳上皇の弟である光明天皇に皇位を譲ることになりました。
同時に、尊氏は征夷大将軍に任じられ、遂に室町幕府が開かれました。

南北朝時代の幕開け

しかし、それでもあきらめないのが後醍醐天皇のすごいところです。
後醍醐天皇は吉野(奈良県)に脱出し、そこで新たな朝廷(南朝)を開いたのです。
京都の「北朝」と吉野の「南朝」が並立する南北朝時代の幕開けです。

後醍醐天皇は吉野(奈良県)で南朝を開いた

しかし、吉野に入ってわずか3年後、後醍醐天皇が崩御します。
これを受けて尊氏は後醍醐天皇追悼のために天龍寺(てんりゅうじ)を建立します。
長年戦っていた後醍醐天皇ですが、尊氏は心のどこかで後醍醐天皇を敬っていたのかもしれません。

日本全土で繰り広げられた「朝廷VS武士」の戦いは、こうして幕を閉じたのです。

世界文化遺産にも登録されている「天龍寺」(京都府) 後醍醐天皇追悼のために天龍寺を建立

その3 日本建国の祖・神武天皇の東征

③日本建国の祖・神武天皇の東征

天地創造と日本建国の祖(初代天皇)である神武天皇(じんむてんのう)も戦う天皇でした。
ただ、北条一族と戦った後鳥羽上皇や足利尊氏と戦った後醍醐天皇と違い、これから話す内容は真実であるどうかは定かではありません。
古くから「神話」として語り継がれてきた物語としてお読みください。

神武天皇は国を治めるために、日向国(宮崎県)を出発!

神武天皇がまだ天皇になる前の名前は「カンヤマトイワレヒコノミコト」ですが、ここでは文章をわかりやすくするために「神武天皇」という名前で説明していきます。

「日本書紀」によれば、神武天皇はお兄さんである五瀬命(いつせのみこと)と共に、国を治めることを決意します。

国を治めるために、日向国を出発!

そこで、神武東征軍(神武天皇の一行)は、日向国(宮崎県)の高千穂宮を出発して、船で瀬戸内海を東に進み、難波(大阪府)に上陸します。
しかし、難波を支配していた長髄彦(ながすねひこ)と戦い、兄・五瀬命が負傷したため、一旦盾津(大阪府)まで退きます。
旅の序盤はなかなかうまくいかなかったようです。

八咫烏(やたがらす)の案内によって戦いに勝利し、遂に初代天皇へ!

盾津(大阪府)まで退いた神武天皇たちは、作戦会議を行ないます。
そこで、兄・五瀬命が↓このように提案します。

「私たち兄弟は太陽神の子孫であるのに、東の太陽に向かって矢を放つのは天の意思に反することであった。回り込んで背に太陽を負って戦おう!」

そして、一行は船でなにわの海を迂回し、熊野(和歌山県)に入ります。
その間、兄・五瀬命は落命し、熊野でも苦戦しますが、八咫烏(やたがらす)の案内で山を越え、遂に大和(奈良県)の地に入ります。

サッカー日本代表のエンブレムにも八咫烏が! 八咫烏(やたがらす)に導かれる神武天皇

八咫烏(やたがらす)とは、大きなカラスという意味です。
ここまでの道のりは苦難に満ちたものでしたが、八咫烏(やたがらす)が先導することになってから、神武東征軍の旅は順調になっていきます。

ちなみに、サッカー日本代表のユニフォームも、三本足の八咫烏(やたがらす)がシンボルマークとなっています。
神武天皇にならって、日本代表を勝利に導いてほしいという願いが込められているのでしょう。

その後、大激戦の末、遂に大和を平定して、紀元前660年、大和畝傍橿原宮(奈良県)を都として、元日に橿原神宮(かしはらじんぐう)(奈良県橿原市)で即位し、初代天皇となりました。
その後、127歳まで生きたそうです。

神武天皇は橿原神宮(かしはらじんぐう)(奈良県橿原市)で初代天皇に即位した

これが神武天皇の東征の物語です。
初代天皇はまさに「戦う天皇」だったのです。

まとめ(超個人的見解)

…いかがでしたか?
鎌倉幕府と戦った後鳥羽上皇と、足利尊氏と戦った後醍醐天皇は武士に偏り過ぎた権力を元の天皇中心の政権に戻すために必死に戦いました。
また、神武天皇は国を1つにまとめるために、東征を行ない日本を建国しました。
神武天皇の決断と行動がなければ、日本はいまだに1つに国としてまとまっていなかったかもしれません。

また、特筆すべきは北条一族です。
後鳥羽上皇との戦いに勝利した時点で「天皇制度」そのものを廃止することもできましたが、あえて皇室を残しました。
この流れは徳川家康の江戸時代を経て現代まで引き継がれてきたわけですから、ある意味、北条一族が日本の在り方を決定づけたといっても過言ではありません。

何かとイメージが悪い北条氏ですが(苦笑)、彼らの英断がなければその後の日本の歴史は大きく変わっていたことは間違いありません。

それにしても、戦う天皇ってかっこいいな~~~!

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