源平交代思想とは|源氏と平氏が交互に政権をとっている謎
「源平交代思想」とは、日本の政権は「平氏」と「源氏」が交互に代わっているという俗説です。
(「源平交代説」「源平交代論」とも呼ばれています)
その歴史は古く、「源平交代思想」は室町時代の頃から信じられていたようです。
果たして本当に日本の政権は「平氏」と「源氏」が交互に担ってきたのでしょうか?
1つ(1人)ずつ解説していきます。
①平氏政権 平清盛(一族)
「源平交代思想」のスタートは平清盛(たいらのきよもり)=「平氏」です。
平清盛は、第50代・桓武天皇の孫から始まる桓武平氏(かんむへいし)の流れで、桓武平氏は平安時代のはじめに関東エリアを支配しました。
この勢力を坂東平氏(ばんどうへいし)と言います。
この桓武平氏の末裔が平清盛です。
平清盛は太政大臣となり、武家政権のトップに立ちました。
文句なしの「平氏政権」といえますね。
②源氏政権 源頼朝(鎌倉幕府)
そんな平清盛の「平氏政権」を倒したのは源頼朝(=源氏)です。
日本初の幕府である鎌倉幕府を開いたことで有名ですね。
源頼朝は、第56代・清和天皇の孫から始まる清和源氏(せいわげんじ)の末裔です。
平清盛の流れである「桓武平氏」と源頼朝の流れである「清和源氏」は、長年にわたり因縁関係にありました。
「保元の乱」では平清盛の父親と源頼朝の父親は仲間同士でしたが、「平治の乱」では敵対し、平清盛は源頼朝の父・源義朝(よしとも)を殺し、源頼朝を伊豆へ島流しにしています。
そこから挙兵して、平家を滅ぼしたのが源頼朝です。
その後、鎌倉幕府を開いて武家のトップに立ちましたから、こちらも文句なしの「源氏政権」といえるでしょう。
③平氏政権 北条氏
鎌倉幕府をつくって日本のトップに君臨した源頼朝ですが、実は源氏政権は3代までしか続きませんでした。
2代目将軍は頼朝の長男・源頼家。
3代目将軍は頼朝の次男・源実朝。
残念ながら、2人とも暗殺されてしまいます。
その後も将軍はいましたが、事実上、鎌倉幕府の政権を握ったのは北条一族でした。
北条一族とは、源頼朝の奥さんである北条政子の一族です。
この北条一族 …実は、「平氏」なのです!
つまり、源頼朝は平氏(平清盛)を滅ぼすために、平氏(北条一族)と手を組んで勝利したというわけです。
もう少し詳しく説明すると、北条一族は「平将門の乱」で平将門を破った平貞盛(さだもり)の末裔で、平貞盛は桓武平氏の流れとなります。
つまり、北条一族と平清盛の先祖は同じということ。
平家は同じ血が流れた北条一族によって滅ぼされたということになりますから、皮肉なものです。
というわけで、源頼朝亡き後の鎌倉幕府は文句なしで「平氏政権」といえますね。
④源氏政権 足利尊氏(室町幕府)
その後、鎌倉幕府は北条一族を中心に政治を行なっていきますが、元寇(げんこう)による経済負担が重くのしかかります。
また、幕府の権力が北条一族だけに集中していることから、御家人たちの間で幕府に対する不満が高まっていきます。
そんな鎌倉幕府を倒したのが足利尊氏(あしかが たかうじ)です。
足利氏はもともと源氏の血筋で、鎌倉幕府の中でも有力御家人としての地位を確立していました。
しかし、社会では幕府に対する不満が高まると共に、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が討幕のために挙兵しました。
そこで、幕府は足利尊氏に後醍醐天皇の反乱を阻止することを命じますが、尊氏は後醍醐天皇の不屈の精神に感銘を受け、そのまま天皇側につくことを決断します。
足利尊氏&天皇軍は強力で、1333年、鎌倉幕府は遂に滅亡します。
その後、尊氏は征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開いて武家のトップに立ちました。
というわけで、こちらも文句なしの「源氏政権」といえるでしょう。
…と、ここまでは見事に「平氏(平清盛)→源氏(源頼朝)→平氏(北条氏)→源氏(足利尊氏)」と「平氏」「源氏」が交代で政権を担っていますが、ここから先が少しずつ怪しくなっていきます。
⑤平氏政権 織田信長
その次は織田信長です。
事実上、室町幕府を倒したのは織田信長といわれています。
そこで、「源平交代思想」の流れでいくと、信長は「源氏」の足利尊氏(あしかが たかうじ)の次なので「平氏」ということになりますが、果たして信長は「平氏」なのでしょうか?
織田氏は、室町幕府の有力大名の斯波氏(しばし)の家臣だったことはわかっていますが、その出自がよくわかっていません。
織田信長は自ら「私は平清盛の孫である平資盛(たいらのすけもり)の子孫である」と自称していますが、斯波氏の家臣だった藤原氏の可能性もあります。
ちなみに、信長の本名は、藤原信長(ふじわら のぶなが)から平朝臣信長(たいらのあそんのぶなが)に変わっているので、どちらの可能性もあります。
しかし、「源平交代思想」はこの当時既に信じられていましたから、織田信長は政治的な目的で「自分は平氏である」と言った可能性が高いですね。
「平氏(平清盛)→源氏(源頼朝)→平氏(北条氏)→源氏(足利尊氏)」と続いてきたので、順番として次は「平氏」が天下を取ることになりますから、自ら「平氏」を名乗ったほうが味方が増える可能性がありますからね。
というわけで、織田信長の平氏政権は△(さんかく)ということで…。
⑥源氏政権 明智光秀
織田信長の次は、信長の家臣・明智光秀です。
ご存知の通り、「本能寺の変」で信長を倒した人物です。
明智光秀は、源頼朝の祖先である清和源氏の分家の土岐氏(とき)のそのまた分家である明智氏の出身ですから、一応「源氏」ということになります。
だから、「源平交代思想」では「平氏(平清盛)→源氏(源頼朝)→平氏(北条氏)→源氏(足利尊氏)→平氏(織田信長)→源氏(明智光秀)」と言われていますが、明智光秀は織田信長を殺しただけで天下を取ったわけではありません。
ただ、「三日天下」という有名な言葉もありますから、「源平交代思想」ではやや強引に明智光秀が入っているわけです。
というわけで、明智光秀の源氏政権は×(ばつ)ですね。
⑦源氏政権 豊臣秀吉
次に天下を取るのは豊臣秀吉ですが、ご存知の通り、秀吉は農民の出身で「平氏・源氏」とは関係がありません。
そこで、豊臣秀吉は「源氏」になるために、室町幕府の最後の将軍・足利義昭(あしかが よしあき)に「養子にしてください」と打診しますが、断られました。
はっきりいって、この時点で「源平交代思想」は破綻していますよね。
「源平交代思想」のために「源氏になりたい」なんて…(笑)。
足利義昭に断られた豊臣秀吉ですが、あきらめません。
関白・近衛前久(このえ さきひさ)の養子になって藤原秀吉となり、関白になったところで独立して「豊臣」を名乗ります。
なお、豊臣秀吉は「源平交代思想」の中で明智光秀をカウントしておらず、「織田信長(平氏)の次は源氏だ」ということで、「源氏」になろうとしていたようです。
というわけで、豊臣秀吉の源氏政権は完全に×(ばつ)ですね。
⑧源氏政権 徳川家康(江戸幕府)
豊臣秀吉の次に天下を取ったのが徳川家康です。
家康は、まだ天下を取るかどうかわからない頃から、自分が「源氏」であることをアピールします。
これは、家康の祖父が「自分は新田氏の末裔だ」と言ったことから始まります。
新田氏といえば、室町幕府を開いた足利尊氏の最大のライバルである新田義貞(にった よしさだ)が有名です。
足利尊氏と争い、敗れた新田義貞は得川(とくがわ)(群馬県)に住み着きます。
ここから「徳川」姓がついたという説があります。
ちなみに、家康の本名は「源朝臣家康(みなもとのあそんいえやす)」であり、家康の末裔の本名は全員「源」です。
また、家康が「源平交代思想」を信じた上で「源氏」を名乗っていたとしたら、当時織田信長が「平氏」を名乗っていましたから、「次に天下を取るのは信長で、その次が私だ」と考えていたのでしょうか。
そこまで先を読んでいたとしたら、家康の先見の明には驚くばかりです。
しかし、信長の次に天下を取ったのは豊臣秀吉で、秀吉自身、自分が「源氏」になるためにいろいろな努力をしました。
もし仮に「秀吉が=源氏」となった場合、「平氏(平清盛)→源氏(源頼朝)→平氏(北条氏)→源氏(足利尊氏)→平氏(織田信長)→源氏(豊臣秀吉)」(明智光秀は無視。笑)となり、「源平交代思想」の順番が狂うことになります。
さすがの家康もここまでは想定できなかったのでしょう。
ただし、家康は「源氏」の流れではなく、家系図を改ざんした疑いが高いようです。
天下泰平の世を築いた家康ですから、家系図の改ざんなどはお手の物だったのでしょう。
まとめ(超個人的見解)
…というわけで、「源平交代思想」を解説してきましたが、はっきりいって、織田信長以降はかなり怪しいですね。
偶然的に「源平交代」になったわけではなく、政治のために「源平交代思想」を利用したというのが正解でしょう。
また、「源平交代思想」の中に明智光秀が入っているのも、かなり苦しいところです(笑)。
信長を討ち取った後の天下は「三日天下」といわれていますから、「源平交代思想」の中に光秀を入れるのはかなり苦しい!
ただ、「平氏(平清盛)→源氏(源頼朝)→平氏(北条氏)→源氏(足利尊氏)」までの流れはたしかに「源平交代」になっており、ここから「源平交代思想」が生まれるのも理解できます。
でも、よく考えてみると、「源平交代」になるのは自然の流れともいえますね。
「平氏」を倒したのが「源氏」なら、「仇をとってやる!」と感じるのは「平氏」なので、「平氏→源氏→平氏→源氏」の順番になるのは当然です。
というわけで、文句のつけようがない「源平交代思想」は↓ここまでで
拡大解釈をすれば↓このような感じでしょうか。
明智光秀さん、豊臣秀吉さん、ごめんなさい!