西郷隆盛と西南戦争|西郷が「勝てるわけがない戦い」を始めた理由
西南戦争とは、1877年に起こった国内最後の内戦です。
図式は、西郷隆盛軍VS新政府軍。
新政府軍の中心人物は、西郷隆盛と共に明治維新を成し遂げた大久保利通です。
なぜ、仲間だった西郷と大久保が戦うことになったのでしょうか?
また、3万人の西郷軍に対して新政府軍は約2倍の6万人の兵力を持つ上、大砲や銃などの武器も充実していました。
西郷にとって勝てるわけがない戦争だったのです。
もちろん、西郷がこのような不利的状況であったことを知らないはずがありません。
それではなぜ、西郷は勝てるわけがない戦いに挑んだのでしょうか?
●なぜ、西郷と大久保は戦うことになったのか?
●なぜ、西郷は勝てるわけがない西南戦争を始めたのか?
この2つの「謎」を解き明かすために、まず西南戦争に至った歴史的な流れを説明します。
「征韓論」で西郷と大久保が対立
1873年、新政府の中である議論が起こります。
朝鮮政府が日本の国書を拒絶して使節を侮辱したため、朝鮮に住んでいる日本人(居留民)が危険な状況にいる。
そこで、彼らを撤退させたほうがいいのか、それとも朝鮮に対して武力で修好条約の締結を迫ったほうがいいのか、という議論です。
この朝鮮問題が起こった時、新政府の中心メンバーである大久保利通、木戸孝允、岩倉具視たちはヨーロッパ視察に出かけていて、日本には西郷隆盛や板垣退助だけが残っている状況でした。
すると、板垣は朝鮮の態度に激怒して朝鮮出兵を主張します。
つまり、戦争を仕掛けようというのです。
西郷はこれに反対します。
西郷自身が大使となって朝鮮に出向き、話し合いをしようと考えたのです。
西郷が新政府のトップである太政大臣・三条実美に送った「朝鮮国御交際決定始末書」には↓このように記されています。
つまり、西郷は平和的な解決を目指したのです。
その後、大久保たちが帰国し、西郷の意見を聞いたところ、猛烈に反対します。
西郷が朝鮮に行けば殺されると言うのです。
そんな朝鮮問題よりも、日本という国を強くするために国力の充実が優先だと。
「しかし、それでは朝鮮にいる日本人たちはどうなるんだ!」
西郷は大久保に迫りましたが、最終的に大久保は明治天皇をうまく味方につけて、西郷の朝鮮派遣は中止となりました。
これが「征韓論」と呼ばれる事件です。
これをきっかけに、西郷は新政府を辞職します。
西郷の辞職と共に、西郷を慕っていた官僚や軍人600人が政府を去りました。
西郷と大久保の2人の運命はここで分かれてしまったのです。
正しい心を持つ日本人を育てるために私学校を設立
その後、西郷は故郷である鹿児島に帰り、静かな生活を送っていました。
明治維新から新政府の立ち上げまで一心不乱に突っ走ってきただけに、「もう政治や戦争はこりごり」と感じていたのかもしれません。
しかし、時代は彼を休ませてはくれませんでした。
大久保を中心とする新政府は1874年に台湾に出兵し、1875年には朝鮮と武力衝突を起こすのです。
西郷の朝鮮派遣の際には「対外戦争は避けるべき」と言っていたのに、その数年後に朝鮮と揉めているのです。
(最終的に日朝修好条規の締結に至りました)
さらに、1876年には「廃刀令」と「金禄公債証書条例」が制定されました。
「廃刀令」とは、「これからは武力の時代ではないから、武士のみなさん、刀は捨てなさい」という法律です。
「金禄公債証書条例」とは、武士が江戸時代から与えられていた俸禄を廃止する法律です。
これらの政策により、新政府に対する士族(武士たち)の不満が拡大していきました。
そのような状況の中、西郷は鹿児島に私学校を設立します。
新政府に不満を持つ士族が増えると、新政府に対する反乱が起こるかもしれない。
それを防ぐために、正しい心を持つ日本人を育てるために、西郷は文と武と農を学ぶ私学校を鹿児島の各地に設立したのです。
しかし、西郷の思いとは裏腹に、私学校の生徒たちは反政府に突き進んでいくことになるのです。
遂に西郷が挙兵を決断!
その後、私学校の影響は鹿児島の中でどんどん大きくなっていきます。
これに危機感を感じた大久保は、鹿児島に24名の警察官をスパイとして潜入させ、鹿児島の弾薬庫からこっそりと火薬類を搬出しようとします。
しかし、これに気づいた私学校の若者たちは火薬庫を襲撃し、警察官を捕えます。
この襲撃の知らせを受けた西郷は「ちょっ、しもた!」と言ったといいます。
「ちょっ、しもた!」とは「しまった!」という意味で、「取り返しがつかないことをやってしまった!」と感じたのかもしれません。
この出来事が新政府への反乱と受け取られる可能性があったからです。
さらに、捕らえた警察官たちを拷問にかけたところ、彼らの目的が「西郷の暗殺」であることがわかりました。
これにより、私学校の生徒たちの怒りは頂点に達します。
大久保の裏切りと、私学校の状況から「これ以上彼らを抑えることはできない」と感じた西郷は「この体はお前さぁたちに差し上げもんそ」という言葉と共に、挙兵を決断します。
結局、西郷は士族たちの不満を一身に背負い、軍を率いることを決断したのです。
そして、国内最後の内戦といわれる西南戦争が起こりました。
西郷と大久保は心の底から憎しみ合っていたわけではない!?
ここまでが西郷が西南戦争を始めた流れですが、西郷と大久保の言動や行動にはいくつかの「謎」があることに気づきました。
征韓論で敗れた西郷が新政府を辞職する際、彼は「参議」「近衛都督」「陸軍大将」の辞職と「位階」の返上を申し出たのですが、「参議」と「近衛都督」の辞職は認められたものの、「陸軍大将」の辞職と「位階」の返上については認められませんでした。
征韓論の後、ほとぼりが冷めたら再び西郷を新政府に呼び戻そうと考えた大久保の配慮だったという説があります。
また、火薬庫で捕まった警察官たちを派遣した目的は「西郷の暗殺」ではなく、あくまで「視察」だったという説があります。
「視察」と「刺殺」を聞き間違えた可能性があるのです。
征韓論を巡って対立した西郷と大久保ですが、幼少の頃からまるで兄弟のように仲良く過ごしてきた2人が心の底から対立するわけがありません。
お互いの立場から対立することもありましたが、大久保は心のどこかで西郷を慕っていたのかもしれません。
西郷隆盛が勝てるわけがない西南戦争を始めた本当の理由
西南戦争における西郷の行動にも「謎」があります。
西郷隆盛軍が目指すのは東京です。
東京に行って新政府をたたきつぶすことです。
しかし、西郷は熊本城に向かいます。
東京から最も離れた場所で開戦したわけです。
もし本気で東京を目指すのであれば、熊本城に向かうのではなく、一気に船で東京を目指すほうが現実的です。
(もちろん、陸路を北上していけば、西日本各地の士族が合流して勢力拡大できるという読みもありましたが)
しかも、3万人の西郷軍に対して新政府軍は約2倍の6万人の兵力を持つ上、大砲や銃などの武器も充実していました。
(西郷軍の装備は旧式のものでした)
そのような軍勢で目指すのは、加藤清正公が築いた難攻不落の熊本城。
西郷にとって勝てるわけがない戦争だったのです。
もちろん、西郷がこのような不利的状況であったことを知らないはずはありません。
それではなぜ、西郷は勝てるわけがない戦いに挑んだのでしょうか?
西郷の真の狙いは、西南戦争によって「武士の世の中」を終わらせようとしたのだと思います。
当時、新政府に対して不満を持つ士族は全国各地にいました。
このような内乱がいつまでも続くと、日本という国がダメになってしまう。
だから、自分が戦争を起こし、そこで負けたら士族たちも気づくだろう。
「西郷でも勝てないのであれば、新政府に従うしかない」と。
さらに、死に様を見せることで、新政府の人間たちにも気づいてほしい。
「俺は命をかけて士族の不満を抑えた。さあ、ここから先はお前たちに任せた。命がけでやれ!」
西郷はそう考えて、あえて「茨の道」を選んだのかもしれません。
西南戦争終結直後、明治天皇は宮中の歌会で「西郷隆盛」という題を出しました。
「これまでの西郷の功績は極めて大きなものである。この度の過ちでその勲功を見過ごすことがあってはならない」というご意向でした。
明治天皇には、西郷の心が伝わっていたのかもしれません。
「死に場所」を探し続けた西郷隆盛
西郷の歴史を振り返ると、彼は常に「死に場所」を探していたように感じます。
薩摩の名君である島津斉彬が死去した際、西郷は僧・月照と共に鹿児島の錦江湾(海)に入水自殺を図ります。
しかし、奇跡的に助かった西郷はその後、明治維新という快挙を成し遂げます。
また、征韓論の際の朝鮮派遣においても「朝鮮との話し合いがうまくいかない場合は殺されるだろう。でも、これが大義名分となり、心置きなく朝鮮出兵をすることができる」と考えていたのかもしれません。
そして、西南戦争挙兵時の「この体はお前さぁたちに差し上げもんそ」という言葉。
これらの行動と言動を見ると、西郷は常に「死に場所」を探し続けていたように感じられます。
その最大の理由は、やはり島津斉彬の存在だったと思います。
それほど、西郷にとって島津斉彬の存在は大きく偉大なものだったということです。
そして、1877年9月24日、西郷隆盛は城山で自刃します。
さらに翌年、大久保利通も不平士族に襲撃され、亡くなります。
西郷と大久保は、正真正銘命をかけて日本を近代化へと導きました。
きっと彼らは天国で再び仲良く酒を酌み交わし、こう言っていたに違いありません。
大久保の死から90年後、日本のGNP(国民総生産)は、当時の西ドイツを抜いて世界2位となり、日本は大国の仲間入りを果たしました。