松平容保が「京都守護職」になった理由|悲劇の会津藩主の人生とその後

松平容保が「京都守護職」になった理由|悲劇の会津藩主の人生とその後 歴史ミステリー(江戸・幕末編)

松平容保が「京都守護職」になった理由|悲劇の会津藩主の人生とその後

1862年、松平容保(まつだいら かたもり)は28歳の若さで「京都守護職」に就任しました。
「京都守護職」とは、江戸時代末期、京都に設置された江戸幕府の官職です。
一見、名誉な役職のように感じられますが、容保のこの選択により、彼の人生は大きく変わってしまいます。

容保の人生だけではありません。
会津藩の運命も悪い方向へと大きく変わってしまいました。
たった1つの選択ミスで、人生がこれほど大きく変わるとは…

松平容保は28歳の若さで「京都守護職」に就任した

しかし、容保が「京都守護職」に就任すれば、会津藩の置かれている状況が悪くなることは最初からわかっていました。
それはまるで、負けるとわかっている戦に挑むようなものです。

だから、容保の家臣たちは、容保が「京都守護職」に就任することに強く反対しました。
しかし、それでも容保は「京都守護職」に就任することを決断しました。
なぜ、容保は決断したのでしょうか?
その決断の理由に迫ります。

デメリットだらけの「京都守護職」就任要請

当時、江戸幕府の権威は失墜し、「尊王攘夷論」が巻き起こる京都では、幕末志士の過激な行動(暗殺や強奪など)で治安が悪化していました。

攘夷志士の過激な行動で京都の治安は悪化していた

そこで、治安を維持するために「京都守護職」という役職が発案されました。
その当時、京都の治安を守る「京都所司代」がありましたが、もはやこの機関だけでは抑え切れず、幕府は京都所司代の上層機関として「京都守護職」を設置します。
そして、強力な武力を持つ会津藩の藩主である松平容保に「京都守護職」就任を打診しました。

繰り返しますが、当時の幕府の権威は失墜していました。
もしかしたら政権が変わるかもしれない混沌とした時代です。
そのような時代において幕府側につくのはかなり危険です。
他の賢い大名たちは、世の中の動きを見ながら、最終的に「勝つ方」に味方することを選びます。
それが、藩を守る唯一の方法ですからね。

1853年のペリー来航以降幕府の権威は失墜し始めた

しかも、会津藩は東北部に位置しており(現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部)、トップの容保が京都に行ってしまうと、その後の連絡のやりとりだけでも大変です。

また、京都の治安維持にかかる経費は会津藩が捻出しなければなりません。
デメリットこそあれ、メリットは何ひとつない選択だったのです。
会津藩の筆頭家老である西郷頼母(たのも)も猛反対しました。

大河ドラマ「八重の桜」では西田敏行さんが熱演はまり役だった・頼母は容保の「京都守護職」就任を猛反対!

「会津藩藩祖の遺訓」により「京都守護職」就任を決断!

そこで、容保は「京都守護職」就任の要請を何度も断ります。
しかし、一橋慶喜(後の徳川慶喜)と福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)の強い説得を受け、容保は断り切れなくなりました。
松平春嶽は「会津藩藩祖の遺訓」を持ち出して詰め寄ったのです。
「会津藩藩祖の遺訓」とは、会津藩の藩祖である保科正之(ほしな まさゆき)が残した家訓です。

藩祖・保科正之が残した「会津藩藩祖の遺訓」

その家訓の第一条に↓このような言葉が残っています。

大君(将軍家)を第一義として忠節をもって勤めること。 他藩の意向や行動をまねて動いてはいけない。 もし、これができず、他の考えを持つようなら自分の子ではない。

「会津藩は徳川家と運命を共にすること」を家訓として残していたのです。
容保が「京都守護職」就任を断れば、徳川家を見捨てることとなり、藩祖・保科正之の意思に背くことになります。
これが決定打となり、容保は「京都守護職」就任を決断したのです。

早速、容保は家臣を集め、「京都守護職」に就任することを伝えました。
容保が「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり(義を第一に将来のことは考えず、京都を死に場所にしよう)」と語ると、家臣たちは皆泣き崩れたといいます。


容保は攘夷派の長州勢を京都から追放し、大活躍!

「京都守護職」となった容保は、約1,000名の会津兵を引き連れて京都へ上洛しました。
当時からイケメンと評判だった容保と、規律正しい会津藩士の行列を「ひと目見たい」と集まった町衆は約4kmにも及んだそうです。

容保は約1,000名の会津兵と共に京都上洛!会津まつり(会津若松市)では、会津藩の行列を再現。容保の京都上洛はまさにこのような風景だっただろう。

その後、容保は孝明天皇に謁見します。
天皇は、イケメンで真面目な性格の容保をすぐに気に入りました。

その後、京都の治安維持のため、容保は活動を開始します。
1863年の「八月十八日の政変」では、攘夷派の長州勢を京都から追放。
容保は孝明天皇から賞賛され、天皇直筆の手紙と和歌をもらいました。
容保はおおいに感激して、ますます治安維持の仕事に励みました。

容保は天皇直筆の手紙と和歌をもらった

新選組
京都見廻組も容保の配下として大活躍しました。
しかし、彼らが活躍すればするほど、攘夷派志士から恨みを買うことになっていきます。
この頃までが容保の人生の絶頂期であり、このあたりから徐々に容保の人生は変化していきます。

「池田屋事件」「禁門の変」と、長州藩と度々ぶつかる容保

1864年6月、長州志士が容保(及び会津藩)を「敵」とみなした決定的な事件が起こります。
京都で起こった「池田屋事件」です。
長州志士たちが集まっている池田屋(旅館)に新選組が乗り込み、長州志士たちを襲撃したのです。
その結果、長州藩は会津藩への憎しみを増大させていきます。

新選組らの活躍が長州の会津への憎しみを増大させていく

「池田屋事件」の翌月、長州藩は京都御所(天皇たちが住む場所)へ向かって攻め込んできました。
「禁門の変(蛤御門の変)」です。
容保ら会津藩は薩摩藩と協力して、長州藩を追い返します。

この頃になると、会津藩の財政は悪化し、容保も体調を崩し始めます。
そこで、容保は「京都守護職」の辞任を申し出ますが、受け入れてもらえませんでした。

長州征討・薩長同盟・討幕の密勅・大政奉還… 目まぐるしく変わる戦局

その後、長州藩は坂本龍馬などの仲介により、それまでの宿敵である薩摩藩と同盟を結びます。
「薩長同盟」です。
これにより、戦局は逆転し始めます。

薩長同盟・龍馬自筆の裏書・薩長同盟所縁之地石碑(京都市)

幕府は、京都で「禁門の変」を起こした長州藩を処分するために「長州征討」を行ないます。
ところが、薩摩藩とつながった長州藩に幕府軍は惨敗。
その後、薩摩藩の大久保利通らが天皇から「討幕の密勅」(幕府を倒す許可)を得ることに成功。
いよいよ薩摩・長州連合軍が「討幕」に向けて本格的に動き始めます。

慶喜の逆転策 大政奉還

戦局が不利になることを感じた将軍・徳川慶喜は、1867年「大政奉還」を決断します。
政治の権力を天皇に返すという意味です。
大政奉還をすれば、薩摩・長州が幕府を攻める理由がなくなります。
頭脳明晰な慶喜の真骨頂といえます。

「朝敵(=天皇の敵)」となった容保

ここで薩摩・長州は新たな行動を起こします。
御所を守っていた会津藩兵を追い出し、御前会議を開き、慶喜の官位辞退と領地返上を決定します。
「王政復古の大号令」です。

岩倉具視・大久保利通が仕掛けた「王政復古の大号令」

これにより、「京都守護職」は廃止となり、会津藩はその役を外れることになりました。
これに対して、容保は「なぜ、我が藩が禁裏の護衛を解かれなければならないのか?」と反発しましたが、実兄から「朝廷の意見には従ったほうがいい」と諭されます。
しかし、容保は譲りません。
「それなら、徳川だけでなく、薩摩・長州・土佐・肥後藩も領地を朝廷に返上するのが筋ではないのか、朝廷の本意とは思えぬ」
容保の言葉は筋が通っています。

この頃になると、朝廷軍(薩摩・長州)対幕府軍(会津)という図式になっていました。
これにより、容保ら会津藩は「朝敵(=天皇の敵)」となり、京都を追われる身となりました。

1868年「鳥羽・伏見の戦い」勃発!

翌1868年、京都で「鳥羽・伏見の戦い」が勃発。
新政府軍(薩摩・長州)の圧倒的な武力の前に幕府軍(会津藩)は敗走しました。

その3日後、慶喜は大阪城を抜け出だし、船で江戸へ逃走します。
会津藩士たちはそれでも「京都で薩摩と戦う!」と言い、容保は慶喜を引き止めようとしますが、慶喜には既に戦う意思がありませんでした。

多くの悲劇を生んだ会津戦争

やがて、新政府軍(薩摩・長州)は会津に乗り込んできました。
容保は、新政府軍に恭順の意を示す準備をしていましたが、新政府軍はこれを拒否し、倒幕派を弾圧した容保を賊軍・朝敵とみなして追討令を出します。

そこで、会津藩は「奥羽越列藩同盟」の諸藩と協力して新政府への徹底抗戦を行ないます。
「会津戦争」の幕開けです。

会津戦争では多くの悲劇が生まれた 約1ヶ月間、砲弾を受け続けた鶴ヶ城 16~17歳の会津藩士が自刃した白虎隊の悲劇

しかし、新政府軍の勢いは止まらず、会津藩は籠城することになりました。
籠城戦は約1ヶ月ほど続きましたが、戦局は不利なまま。
奥羽越列藩同盟の主力藩は次々に降伏を表明し、やがて会津藩も降伏しました。
この時既に会津の町の大部分は焼野原になっていたそうです。

会津戦争では女性や子供も戦力として駆り出されたため、多くの悲劇が生まれました。
10代の少年たちによる白虎隊や、薙刀を抱えて戦った女性たちによる娘子隊の話は今もなお語り継がれています。

容保のその後の人生

新政府軍に降伏した松平容保

新政府軍に降伏した後の容保は妙国寺(会津若松市)で謹慎となり、その後は東京の備前池田家に永預けとなりました。
明治に入ってからは和歌山藩斗南藩に預け替えとなりましたが、東京に移住した翌年には蟄居を解かれています。

1880年(明治13年)には日光東照宮の宮司に任命されましたが、1893年(明治26年)に東京の自宅で逝去。
59年の波乱の人生に終わりを告げました。

晩年の容保は日光東照宮の宮司を務めた

波乱万丈の人生だった容保ですが、晩年は仕事のかたわら歌道を楽しんだそうです。
容保は孝明天皇からもらった手紙と和歌を竹筒に納めて首にかけ、死ぬまで大事に持っていました。
そんな容保は、明治維新については一言も語りませんでした。

まとめ(超個人的見解)

もともと容保は会津藩の直系藩主ではありませんでした。
徳川家の血統ではありますが、12歳の時に会津8代藩主・松平容敬の養子となり、会津藩を引き継ぐことになりました。

会津にやってきた容保は会津独特の教育を受けることになります。
皇室を尊ぶ神道、義理の精神を重んじる儒教、徳川家への絶対随順を唱える会津藩家訓など、幼少期にこれらを学んだことが、その後「京都守護職」就任を決断した大きな要因になったことは間違いないでしょう。

その結果、会津戦争では多くの悲劇が起こってしまいました。
もし、容保が「京都守護職」を頑なに固辞していたら、その後の日本の歴史は大きく変わったかもしれません。

…と、現代人の私たちが過去を振り返るとそう感じるかもしれませんが、当時は幕府か勝つか、新政府が勝つか誰にもわからない時代です。
兵士の数や軍艦などの武力では圧倒的に幕府側が有利でしたから、容保の選択が100%不正解とも言えません。

また何よりも、江戸幕府は270年間続いていました。
270年間といえば、かなり長いですよね。
おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんもずっと江戸時代なわけです。
「世の中は幕府が治めることが当たり前」の時代だったわけです。

270年間泰平の世を実現した江戸幕府

しかも、容保は徳川の血を引いています。
幕府がつぶれるかどうかという時代に「幕府を助けたい」と思うのは当然なのではないでしょうか。
結果的にその判断が悪い方向にいってしまいましたが、少なくとも今まで幕府に恩恵を受けていたにも関わらず静観していた他の大名よりも立派で潔い生き方だったようにも感じます。

ここからは超個人的意見ですが、明治維新の最大の立役者は西郷隆盛と松平容保の2人だったと思います。
この2人が徹底的に戦い合うことで、結果(新政府の勝利)がはっきりと出ました。
ここであやふやな結果のままだと、その後も各地で戦争が続き、その後の日本の発展はなかったような気がします。
歴史を語る時、なぜか容保はそれほど注目されませんが、容保ほど「義」を守り抜いた人はいません。

明治維新の最大の立役者 西郷隆盛と松平容保

晩年、容保は日光東照宮の宮司に任命されました。
日光東照宮といえば、徳川初代将軍・家康公を御祭神に祀る神社です。
つまり、容保は最後まで徳川家を守り続けたということです。

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