坂本龍馬は明智光秀の子孫 4つの説|亀山社中や家紋に隠された秘密とは?

坂本龍馬は明智光秀の子孫 4つの説|亀山社中や家紋に隠された秘密とは? 歴史ミステリー(その他)

明治維新で大きな役割を果たした坂本龍馬は、実は「本能寺の変」で日本の歴史を変えた明智光秀の末裔であるという説があります。

これが事実であれば、2つの時代(戦国時代と江戸時代)で日本を変えた一族ということになりますが、この説が真実であるかどうかを解説してまいります。

坂本龍馬は明智光秀の子孫 4つの説|亀山社中や家紋に隠された秘密とは?

まず、「坂本龍馬は明智光秀の子孫説」を最初に唱えたのは、明治時代の小説家・坂崎紫瀾(さかざきしらん)が龍馬を主人公にして書いた「汗血千里駒(かんけつせんりのこま)」という小説です。

小説「汗血千里駒」 小説家・坂崎紫瀾

その小説の中の一説に↓このような記述があります。

そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ケ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り遂に移住て

わかりやすく解説すると↓このような意味になります。

龍馬の祖先は明智左馬之助光俊の一類で、坂本落城の際に「坂本」と姓を改め、一時は美濃関ケ原のあたりにいたが、その後ゆえあって土佐へ移住した。

ここに出てくる「明智左馬之助光俊」とは、明智光秀の娘婿です。
娘婿 …ということは、結局龍馬は血がつながっていないのでは?と感じるかもしれませんが、しっかりと血はつながっています。
その理由も解説していきますね。

ただ、坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を証明する資料は残されていないので、両家に関係があったのかは全くわかりません。
しかし、坂本家の中では「明智光秀の娘婿である明智左馬助の末裔が坂本家である」という言い伝えが代々受け継がれているようですから、完全否定することもできません。

そこで、「坂本龍馬は明智光秀の子孫説」の元となった4つのポイントを解説いたします。


その1 坂本家初代・太郎五郎=光秀の孫!?

高知県南国市にある坂本家初代太郎五郎のお墓には↓このように記されています。

弘治永禄の頃(1555~70年)畿内の乱を避け、土佐の国殖田郷才谷村に来り住む

弘治永禄の頃、畿内の戦乱から逃れて土佐(高知県)にやってきた、という意味です。

ちなみに、太郎五郎の父親は、先ほど説明した「明智左馬之助光俊(=光秀の娘婿)」です。
左馬之助は光秀の娘婿なので、光秀と血はつながっていませんが(光秀の従兄弟という説もあります)、光秀の娘(倫子)を妻に迎えているので、その子供である太郎五郎(坂本家初代)は光秀と血がつながっていることになります。

明智光秀と坂本龍馬の家系図

また、当時土佐(高知県)の大名である長宗我部元親の妻の父親(石谷氏)は光秀と深い関係がありました。
つまり、光秀は土佐(高知県)と深いつながりがあったということです。
だから、太郎五郎が光秀と土佐のご縁を頼りに土佐(高知県)にやってきたことは十分に考えられます。

ただし、高知県立坂本龍馬記念館の公式ホームページでは↓この説に反論しています。

もし、太郎五郎が光秀と土佐のご縁を頼りに土佐にやってきたのであれば、才谷村のような山間部ではなく、平野部の一定の領地を与えられてもおかしくはない。

たしかにその通りですね~。

また、太郎五郎は左馬之助と倫子の間に生まれた子供ではなく、左馬之助と側室との間に生まれた子供であるという説もあります。
そうなると、太郎五郎は光秀と血がつながっていないことになります。(残念!)

それ以外にも様々な説があり、太郎五郎の正体がいまいちハッキリしないため、龍馬と光秀の関係性もはっきりしていません。

その2 光秀の居城「坂本城」から、龍馬の先祖が「坂本姓」を名乗った!?

光秀の本拠地は近江おうみ(滋賀県)坂本にあった坂本城」です。
この城の名前と龍馬の苗字が同じであることから、龍馬の先祖が「坂本姓」を名乗ったのではないか?という説があります。

「坂本姓」の由来は光秀の居城・坂本城!?

しかし、龍馬の先祖はもともと「大濱姓」を名乗っていました。
(それ以前は苗字をもたない百姓でした)
その後は「才谷屋」という屋号で豪商をしており、6代目の直益が郷氏の身分を手に入れ、才谷家の分家として「坂本姓」を名乗るようになりました。

また、「坂本」という地名や「坂本姓」の人は全国に数多く存在していますから、これだけで「坂本龍馬は明智光秀の子孫」を立証することはちょっと難しいですね。

その3 光秀の居城「亀山城」から、「亀山社中」と命名した!?

龍馬がつくった「亀山社中」という名前(会社名)は、光秀の居城であった「亀山城」に由来するのでは?という説があります。
当時、亀山城を居城にしていた光秀は「本能寺の変」を決起し、日本の歴史を変えました。
この史実を知っていた龍馬もまた日本を変えるために活動をしていたため、坂本家の先祖である光秀のパワーを借りるために「亀山」という名称を付けたことは十分に考えられます。

「亀山社中」の由来は光秀の居城・亀山城!?

ところが、龍馬は「長崎県亀山」という場所で会社を設立したことから「亀山社中」と命名したそうです。残念…

その4 坂本家の家紋の中心部に明智家の家紋がある!?

坂本家の家紋は、組み合わせ桝に桔梗で、その中心に明智の家紋と同じ桔梗が描かれています。

明智光秀の家紋・坂本龍馬の家紋

この家紋は明智家の流れをくんでいるのでは?と感じるかもしれませんが、坂本家が郷氏の身分になる前は、「丸に田の字」を家紋を使用していたそうです。
また、桔梗紋は武家ではよく使用されているので、坂本家も郷氏になるのをきっかけに名門にあやかって桔梗紋を選んだだけだと思われます。

まとめ(超個人的見解)

ここまでいろいろな「坂本龍馬は明智光秀の子孫説」を解説してきましたが、いずれの説も確固たる証拠がないため、龍馬が光秀の子孫である確率は低いように感じます。
明治時代の小説家・坂崎紫瀾(さかざきしらん)が小説を売るための話題づくりとして、歴史的に人気がある坂本龍馬を明智光秀をやや強引に結びつけたのだと思います。

しかし、それでも「坂本龍馬は明智光秀の子孫説」が100%あり得ないとは言い切れないのが「歴史」の面白いところです。
少しだけ歴史を遡ると、非常に興味深いことがわかります。

坂本家初代の太郎五郎が仕えていた長宗我部家は、「大阪夏の陣」では豊臣側についたため、長宗我部元親の四男・盛親が処刑され、一族は滅亡しました。
その後、土佐にやってきたのが山内一豊です。
山内は長宗我部の旧臣たちを「郷士(ごうし)」と呼び、山内家の家臣より低い身分として扱いました。
この郷士の身分から生まれてきたのが坂本龍馬です。

山内一豊の登場により土佐藩には身分差別が生まれた

その後、龍馬の活躍により明治維新が実現し、それまでの封建社会はなくなってしまいます。
山内一豊たち大名はその権力を奪われてしまったのです。

そう考えると、龍馬は明治維新によって長宗我部家の仇を討ったともいえます。
本能寺の変が起こった1582年から、封建社会が完全になくなった廃藩置県の1871年までの約300年もの時間をかけた壮大な復讐劇です。

明治維新は約300年もの時間をかけた壮大な復讐劇だった!?

さらに、興味深い説があります。
キリンビールのロゴマークである「麒麟」は、龍馬をイメージしたものでは?という説があります。
キリンビールの「麒麟」は「龍の頭」と「馬の体」を合わせた生き物のようにも見えるので、これは龍馬の名前を元につくられたロゴマークなのでは?という説です。

「龍の頭」と「馬の体」を持つキリンビールのロゴマークは坂本龍馬をイメージしたもの!?

ちなみに、キリンビールの誕生には坂本龍馬と親交のあった岩崎弥太郎トーマス・グラバーの2人が大きく関わっていましたから、この説には説得力があります。

…この2つの説から、気づいたことがあります。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、最後まで「麒麟」の存在が明らかにされませんでした。
この「麒麟」とは…

坂本龍馬のことだったのかもしれません。

「麒麟がくる」の「麒麟」は坂本龍馬だった…!?

明智光秀は、自分の子孫から「いつか世の中を大変革する麒麟が現れること」を予見していた。
大河ドラマ「麒麟がくる」のタイトルには、そんな壮大なメッセージが秘められていたのかも…!?

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