本能寺の変 黒幕|秀吉?家康?朝廷?有力な黒幕は…

本能寺の変 黒幕|秀吉?家康?朝廷?有力な黒幕は… 歴史ミステリー(戦国時代編)

本能寺の変 黒幕|秀吉?家康?朝廷?有力な黒幕は…

日本史の中でも最大の謎と言われている「本能寺の変」
明智光秀が織田信長に対して謀反を起こした歴史的事件ですが、実はこの事件は光秀が単独で行なったものではなく、光秀の後ろには「黒幕」がいたという説があります。

そこで、7つの黒幕説と共に、最も有力な黒幕をズバリ解説いたします!

「本能寺の変」とは?

まず、「本能寺の変」について簡単に説明します。
1582年、京都の本能寺で起きた織田信長の暗殺事件です。
犯人は信長の家臣・明智光秀で、光秀の謀反を全く予想できていなかった信長は、護衛がほとんどいない状況の中で襲撃され、最後は焼け落ちる本能寺の中で自刃しました。

この時、信長を護衛していたのは150~160人で、光秀は1万3,000の軍勢で攻め込んだそうです。
さすがの信長もこれだけの兵力差では勝てるわけがありません。

日本史最大の謎「本能寺の変」

それではなぜ、光秀は謀反を起こしたのでしょうか?
信長の家臣でありながら、なぜ光秀は信長を襲撃したのでしょうか?
「本能寺の変」は日本人なら誰でも知っているほどの歴史的事件ですが、実は光秀の犯行動機が完全には解明されていません。

また、「本能寺の変」は光秀の単独犯ではなく、光秀を扇動した(そそのかした)「黒幕」がいた可能性が高いと言われています。
その黒幕とは一体誰なのか?
7つの黒幕説を1つずつ解説していきます。

その1【豊臣秀吉&黒田官兵衛】黒幕説

豊臣秀吉&黒田官兵衛 黒幕説

豊臣秀吉は多くの戦いで戦功を挙げていたものの、元々家柄が低いという理由から、信長の家臣団の中では低い身分のままでした。
そんな秀吉は、光秀と共に中国地方の攻略を(信長から)任されていました。
そこで、秀吉が光秀に信長暗殺をもちかけた可能性があります。
また、秀吉には有能な策士である黒田官兵衛という家臣もいましたから、官兵衛の発案で秀吉と光秀が結託した可能性は十分にあり得ます。

ちなみに、「本能寺の変」の時、秀吉は備中国の高松城で毛利軍と対峙していましたが、すぐに毛利輝元と和睦を結び、ありえないスピードの「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」で京都に帰還し、その後「山崎の戦い」で光秀を死へ追い込みました。
つまり、光秀は秀吉に裏切られたというわけです。
ここまでの全ての計画を秀吉(または官兵衛)が立てていたとすれば、恐ろしいですね。

山崎の戦いで光秀が本陣を置いたとされる恵解山古墳(京都府長岡京市)

事実、「本能寺の変」で一番得をしたのは秀吉です。
信長が死んだことで、秀吉はその後天下人になることができたわけですからね。
「本能寺の変」には多くの黒幕説がありますが、この「豊臣秀吉 黒幕説」が一番人気があります。

ただ、疑問点もあります。
そもそも秀吉と光秀はライバル関係にあったため、この2人が結託することはちょっと考えにくいことです。

その2【徳川家康】黒幕説

徳川家康 黒幕説

徳川家康は信長と同盟関係にあったものの、家康もまた天下を狙っていましたから、信長の存在が邪魔であったことは容易に想像できます。
ただ、「本能寺の変」の後に家康は命からがら岡崎城に帰還しています。
有名な「伊賀越え」ですね。

ここで「死ぬ思いをしながら伊賀越えをしたのだから、家康が黒幕ではないだろう」と感じるかもしれませんが、最終的に天下を取ったのは光秀でも秀吉でもなく家康ということを考えると、家康が黒幕ではないと断定するのはちょっと短絡的な考え方かなとも思います。

ところで、徳川三代将軍家光の乳母である春日の局(かすがのつぼね)斉藤利三(さいとう としみつ)の娘であることをご存知ですか?
斉藤利三といえば、明智光秀の側近中の側近であり、「本能寺の変」の後、謀反人として京都で処刑されています。
つまり、春日の局=謀反人の娘ということです。
それなのに、なぜ「春日の局」が家光の乳母になったのでしょうか?

明智光秀と斉藤利三と春日の局と徳川家光の関係

ここからは私の想像ですが、光秀が「本能寺の変」を起こす前に斉藤利三が交渉役となって家康に近づきました。
そこで3人は意気投合し、「本能寺の変」で見事信長を討ち取った!
しかし、その数日後に秀吉が猛スピードで京都に帰ってきたため(家康にとっては計算外!)、形勢が悪くなることを感じた家康は光秀と斉藤利三を見捨てて岡崎に帰ってしまった。

その後、家康は天下統一を果たしますが、やはりこのことが気になっていて、斉藤利三の娘である「春日の局」を取り立てたのでは?
そう考えると、家康が黒幕だったことも十分に考えられますよね。

その3【朝廷】黒幕説

朝廷 黒幕説

当時、信長の勢いはすさまじいものがありました。
そんな信長の姿を見て、天皇や公家の人々が「このままでは私たちも危険なのでは?」と感じたのは間違いないでしょう。
そこで、朝廷が信長に対して危機感を感じた具体的な出来事を紹介します。

まず、朝廷は信長に「征夷大将軍」の地位を与えようとしましたが、信長はこれを拒否しています。
(ここで信長が征夷大将軍になっていれば、現代の教科書には「織田幕府」が掲載されていたはずですが…)
なぜ、朝廷は信長に「征夷大将軍」の地位を与えようとしたのか?といいますと、「征夷大将軍」は天皇が任命するものです。
つまり、天皇の部下になるということ。
信長は天皇の部下になることを拒否したのです。

また、正親町天皇に退位を迫ったことも挙げられます。
天皇の即位や退位にまで口を出してくる信長に、朝廷が大きな脅威を感じたのは間違いありません。

信長は安土城で「神」になろうとしていた!?

さらに極めつけは、安土城の中に神殿を設けたことです。
これは、信長は自らが「神」になろうとしたことを意味します。
信長は「神」になり、天皇を超える存在になろうとしていたのです。
朝廷が光秀をそそのかし、信長暗殺を企てるのも頷けますよね。

ちなみに、公家の吉田兼見は秀吉ととても良好な関係にあったそうです。
そう考えると、「朝廷&豊臣秀吉」が共同で黒幕になったという説も考えられます。

その4【仏教勢力】黒幕説

仏教勢力 黒幕説

信長は比叡山延暦寺や石山本願寺など仏教勢力と戦い続けてきました。
当時、日本の中で一番信長に恨みを抱いていたのは間違いなく彼ら(仏教勢力)といえるでしょう。
そう考えると、「仏教勢力 黒幕説」は十分に考えられます。

その5【毛利輝元】黒幕説

毛利輝元 黒幕説

武田氏が滅んだ後、信長が最も脅威と感じていたのが、中国地方を支配していた毛利輝元でした。
事実、毛利氏は信長の家臣である秀吉と戦闘状態にありましたから、その後信長本隊がやってくるのは当然の流れであり、これに大きな危機感を感じていたはずです。

そこで、毛利氏は安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)を仲介役として、光秀や秀吉に全面協力することを条件に信長暗殺をけしかけたという説があります。
この密約があれば秀吉の「中国大返し」も理解できますし、「本能寺の変」の後に天下を取った秀吉は、毛利氏と安国寺恵瓊を優遇しています。
一連の流れを見ると、毛利輝元もかなり怪しいな~と感じます。

その6【長曾我部元親】黒幕説

長曾我部元親 黒幕説

当時、四国の阿波国(徳島県)には信長に敵対する三好康長(みよし やすなが)がいました。
そこで、信長は光秀を仲介役にして長曾我部元親(ちょうそかべ もとちか)と同盟を結び、三好を攻めさせました。
「三好を討てば、四国は長曾我部一族が支配していい」という条件付きで。
ところが、その後なぜか信長は三好と組んで、四国征伐を決定します。
光秀の面目は丸つぶれです。

その後、織田軍の四国攻めが準備され、長宗我部元親は絶体絶命の危機に陥いります。
しかし、そこで奇跡が起こります。
「本能寺の変」によって信長が死に、四国出兵がなくなったのです。

長曾我部元親が「本能寺の変」の黒幕であったかどうはわかりませんが、この出来事が光秀を信長暗殺に走らせた一因になったことは間違いないでしょう。

その7【足利義昭】黒幕説

足利義昭 黒幕説

室町幕府最後の将軍である足利義昭は、常日頃から信長に対して恨みを抱いていました。
いつか信長を討ち、再び将軍として京都に行くことを考えたのは当然です。
また、義昭は光秀と古くから付き合いがあり、光秀は義昭を将軍として敬っていました。
そこで、光秀をそそのかして「本能寺の変」を実行させたという説です。

その当時、義昭は鞆の浦(とものうら・広島県福山市)で毛利氏の庇護を受けていました。
「本能寺の変」の後、秀吉は毛利氏と停戦協定を結んで「中国大返し」を敢行し、光秀を討つことになるのですが、ここで疑問点があります。
秀吉が京都に戻れば光秀が危険になることはわかっていたので、毛利氏と仲が良かった義昭が秀吉の動きを止めることもできたはず。
また、「本能寺の変」で信長が死んだ後、義昭は目立った動きをしていません。
なぜなのでしょうか?

それは、信長が死んだことにより、義昭は満足したからだと思います。
義昭にとって「信長の死」こそが悲願になっていたのかもしれません。
そう考えると、義昭からうまい具合に利用された光秀が不憫ですね。

これ以外にも「イエズス会 黒幕説」「堺商人 黒幕説」「オランダ 黒幕説」「森蘭丸 黒幕説」など、これまでに数多くの黒幕説がささやかれてきました。
「本能寺の変」が日本史上最大の事件であることの証です。

まとめ(超個人的見解)

そもそも光秀はなぜ「本能寺の変」を起こしたのか?といいますと、光秀が信長を恨む出来事がいくつかあります。
「長曾我部元親 黒幕説」で説明した四国問題もそうですし、長い間仏教勢力との戦い続けていることに疑問を感じていた節があります。
また、それ以外にも↓このような出来事がありました。

●信長が家康接待する際、料理に悪臭がすることを信長が光秀をとがめ、恥をかかされた。

●丹波八上城を包囲していた光秀が実母を人質にして城主波多野秀治・秀尚兄弟を捕縛したところ、信長の命令で秀治・秀尚が安土で磔にされたため、光秀の実母が殺害された。

意見した明智光秀を打ち据える信長

しかし、実はこれらの話には史的な証拠がなく、後世の創作話である可能性が高いのです。
なぜ、そのような創作話をつくる必要があったのか?といいますと、真の黒幕「徳川家康」だったからだと私は考えます。

「本能寺の変」の約20年後、家康は天下統一を果たします。
つまり、その後は家康が好きなように歴史を書き換えることができるということです。
そこで、光秀と共に信長を討ったことは隠し、光秀だけを悪者にするためにいろいろな創作話をつくらせたのではないでしょうか?

「しかし、家康は伊賀の山越えで苦労したから黒幕ではないのでは?」と反論する方もいるかもしれませんが、それは単純に予想外の出来事だったと思います。
いろいろなことを細かく綿密に計画しても、100%全て予想通りに進むとは限りませんからね。

また、家康は信長の命令により、自分の妻子(正室と嫡男)を殺された経緯があります。
家康は表面上は信長と同盟を結んでいましたが、この出来事に恨みを抱いていたことは十分に考えられます。

そして、家康が事実上天下統一を果たした戦いは「関ヶ原の戦い」です。
「関ヶ原の戦い」には↓このようなエピソードがあります。

家康は東軍で、西軍の首謀者は石田光成です。
光成は、東軍についた細川忠興の奥さんを人質にとろうと画策しますが、彼女は光成の人質になることを拒否し、自害します。
この出来事が影響し、西軍の敗北の一因になったと言われています。

その女性とは、光秀の娘・細川ガラシャです。
つまり、家康は光秀親子の命がけの行動によって天下を取ることができたのです。

家康は光秀親子に家康は光秀親子の命がけの行動によって天下を取ることができた!?

それでも、光秀を悪者にしなければならない理由とは…

再び徳川家が狙われることがないよう、太平の世を実現するための苦渋の決断だったのかもしれません。

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