江戸城無血開城は本当に「無血」だったのか!?勝海舟の驚きの策略
「江戸城無血開城」とは、幕府側の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会談を行なうことで、戦争が行なわれず、平和的な解決が実現した歴史的事件です。
このように、戦うことなく、また敵の大将(徳川慶喜)を殺すことなく政権が交代した事実は、日本の歴史においても、世界の歴史においてもとても珍しいことであり、会談を行なった勝海舟と西郷隆盛の最大の功績といえるでしょう。
しかし、「江戸城無血開城」は本当に「無血」だったのでしょうか?
また、「江戸城無血開城」が実現した最大の要因は「勝海舟の交渉術」と言われていますが、実はこれ以外にも複数の要因がありました。
そこで、日本史上最大の分岐点ともいえる「江戸城無血開城の真相」を解説いたします。
「慶喜の処刑」にこだわる西郷隆盛
「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた15代将軍・徳川慶喜が江戸に逃走すると、戊辰戦争の舞台は江戸(東京)に移ります。
西郷率いる新政府軍は、東海道・中山道・甲州街道の三方から江戸に迫ってきました。
迫りくる新政府軍を前に、慶喜は上野の寛永寺に蟄居し、恭順(新政府軍に従うこと)の意思を示しました。
ところが、西郷は同じ新政府軍の大久保利通に「慶喜を切腹させる」と書いた手紙を送るほど、徹底的に慶喜を処刑することにこだわっていました。
西郷がなぜこれほどまでに慶喜の処罰にこだわったのか?といいますと、慶喜は「家康の再来」ともいわれるほどの大人物で、「彼を生かしておくと、いつか逆転されてしまうのでは?」という大きな恐怖感を感じていたからです。
西郷隆盛と勝海舟の会談を実現させた山岡鉄舟
西郷の強硬な姿勢に対して、慶喜は西郷との交渉を勝海舟に託します。
その理由は、以前から勝海舟と西郷は面識があり、西郷は勝海舟を尊敬していたからです。
まず、勝海舟は西郷宛の手紙を書き、これを山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)が、駿府(静岡県)にいる西郷のところへ持っていくことになりました。
山岡は西郷と会談できたものの、西郷は「新政府軍は既に1868年3月15日に江戸城を総攻撃することが決定している」と言います。
そこで、山岡は勝海舟から預かっていた手紙を渡します。
手紙には↓このような内容が書かれていました。
この手紙を読んだ西郷は、「江戸総攻撃の回避」と「慶喜助命」を叶える7つの条件を山岡に提示しました。
1.慶喜の身柄を備前藩(岡山県)に預けること
2.江戸城を明け渡すこと
3.城中の家臣を向島へ移すこと
4.兵器を引き渡すこと
5.軍艦を引き渡すこと
6.慶喜の暴挙を補佐した者を調査し処罰すること
7.暴発の徒が激しい場合、官軍が鎮圧すること
この7つの条件を受け入れられるのであれば、「江戸総攻撃の回避」と「慶喜助命」を叶えると西郷は言いました。
すると山岡は、7つの条件のうち2条から7条は受け入れるが、1条の「慶喜の身柄を備前藩(岡山県)に預けること」だけは断じて受け入れられないと強く主張しました。
備前藩に預けられると、慶喜の命の危険があったからです。
さらに、山岡は西郷に「勝海舟と会談をしてほしい」と伝えました。
山岡の毅然とした態度に感銘を受けた西郷はこれを了承し、3月13日、遂に江戸の薩摩藩邸で西郷と勝海舟の会談が行なわれました。
その会談で、勝海舟は驚きの交渉術を見せます。
(その内容は後ほど説明します)
この2人の会談により、西郷は計画の2日前に江戸総攻撃を中止。
「江戸城無血開城」が実現したのです。
一般的に「江戸城無血開城」の最大の功労者は西郷隆盛と勝海舟といわれていますが、この2人の会談を実現させた山岡鉄舟の存在も大きかったといえますね。
ちなみに、2人の会談は詳細な記録が残っておらず、どこでどのような会話が行われたのかはわかっていません。
会談が行われた場所も一般的に「江戸の薩摩藩邸」といわれていますが、薩摩藩は三田・高輪に屋敷があり、どちらの場所で行なわれたかは定かではありません。
勝海舟の日記の中に「高輪の薩摩藩邸へ行った」という記述が残されていることから、1日目に高輪の屋敷で予備的な会談を行ない、2日目に三田の屋敷で最終的な会談を行なった説が有力です。
また、愛宕神社がある愛宕山で会談が行われたという説もあります。
…ここまでの話が一般的な「江戸城無血開城」の流れですが、「江戸城無血開城」が実現した背景には複数の要因がありました。
そこで、代表的な5つの要因をそれぞれ解説していきます。
要因その1 勝海舟の「江戸焦土作戦」
勝海舟は、新政府軍が江戸の町に攻めてきた時に備えて、自ら江戸の町を焼き尽くす「江戸焦土作戦」を計画していました。
江戸の町を焼き尽くして新政府軍の侵入を阻み、その間に江戸市民を脱出させる計画です。
この作戦ははったり等ではなく、実際に勝海舟は江戸の町火消したち(現代の消防隊)に指示を出しており、勝の号令で一気に江戸の町を焼き尽くす手はずを整えていました。
ここで西郷は悩みます。
「江戸焦土作戦」を無視して江戸を総攻撃すれば、江戸の町は火の海になってしまう。
それにより幕府軍との戦いには勝利できるけれど、その後日本を率いていくのは新政府軍であり、焦土と化した江戸を立て直す役目を負うことになります。
勝海舟のこの捨て身ともいえる大胆な作戦が功を奏し、西郷は「江戸総攻撃」を中止したのです。
要因その2 新政府軍は資金難に陥っていた!
西郷や大久保は「慶喜を処刑すべきだ」と考える強硬論派でしたが、薩摩藩では強硬論派はほとんどいませんでした。
というよりも、倒幕に反対する人も多かったようです。
「今まで恩恵を受けていた徳川家を滅ぼす必要はないだろう」と考える人が多かったのでしょう。
また、新政府軍は軍資金が足りず、極度の資金難に陥っていました。
薩英戦争や度重なる上京や出兵で、薩摩藩の財政は破綻寸前だったのです。
しかも、江戸を攻撃するとさらに戦費がかかります。
西郷はここに悩んでおり、これも「江戸総攻撃」の中止の一因になったのは間違いないでしょう。
要因その3 新政府の海軍力は弱かった!
新政府軍の主力は長州藩と薩摩藩の人たちですから、「江戸総攻撃」を行なうためにかなり長い距離を遠征してきています。
そこで、もし勝海舟との会談が失敗に終わり、旧幕府軍が攻撃を仕掛けてきた場合、箱根を襲撃し、東海道を分断して新政府軍の補給路を断って孤立させる作戦が考えられました。
そのタイミングで勝海舟は西郷に手紙を送りました。
手紙には↓このように書かれていました。
「幕府軍の海軍を使えば、大阪湾からも東海道からも攻撃できるが、慶喜は恭順しているからそのような攻撃はしない。だから、新政府軍を箱根の西にとどめてほしい」
実は、新政府軍は海軍力が弱く、一方幕府軍は強大な海軍力を持っていました。
手紙の中で「海軍力」をちらかせたのがおおいに効果的だったのです。
勝からの手紙を読んだ際、西郷は「痛い所をつかれた!」と言い、激怒したそうです。
全ての戦局を把握し冷静な交渉を行なった策士・勝海舟の勝利といえるでしょう。
要因その4 元上司である篤姫からの魂の嘆願書
江戸総攻撃の前に、西郷の手元には篤姫から「徳川家存続の嘆願書」が送られてきました。
篤姫とは、西郷が敬愛する島津斉彬の養女であり、13代将軍・徳川家定の妻です。
篤姫が大奥入りする際、「嫁入り道具」一式を揃える大役を任されたのが、若い頃の西郷でした。
つまり、元上司から「徳川家を存続させてほしい」という嘆願書が届いたということです。
この篤姫からの嘆願書も、西郷の心を揺さぶったのは間違いないでしょう。
ちなみに、篤姫の嘆願書は鹿児島県婦人会編「薩藩女性史」(鹿児島県教育委員会・1935年10月)にその全文が掲載されています。
「徳川に嫁いだ以上は、当家(徳川)の土となるのは勿論のことであるが、温恭院(徳川家定)が既に他界しているので、今はなき夫に代わって当家の安全をただ祈るばかりである。
しかし、自分の存命中に当家にもしものことがあれば、あの世で全く面目が立たず、そのことを思うと不安で日夜寝食も十分に取れず悲嘆しています。」
篤姫の全身全霊をかけた魂の嘆願書ですね。
要因その5 イギリス公使・パークスの猛反対
当時、幕府にはフランスが、新政府軍にはイギリスが協力していました。
そこで、西郷はイギリス公使・パークスに「江戸総攻撃」の了解を求めました。
江戸を攻撃した際の負傷者を収容する病院を提供してほしいという要望も含めた内容でした。
しかし、パークスは了承するどころか、激怒します。
「西洋では、負けた国の君主の首を求めるような残虐なことは許されない。慶喜公は助命しなさい。死罪にするならば国際公法違反だ。日本がこれから先、国際社会にデビューするならそこのところをしっかりと考えなさい!」
さらに「慶喜公に戦う意思はないのに、なぜ総攻撃をするのだ!」と続けたそうです。
その根底には、江戸総攻撃が行われれば、江戸も横浜も大混乱に陥り、イギリスは貿易ができなくなるデメリットを感じていたのでしょう。
また、西郷との会談の前に、勝海舟はイギリス公使・パークスとフランス公使・ロッシュに接触し、「江戸攻めが行なわれれば、俺の手で江戸の町を混乱させてやる」と脅しをかけていました。
「要因その1」で説明した「江戸焦土作戦」のことでしょう。
後にこの事実を知った西郷は愕然とします。
さらに、勝海舟はイギリス公使・パークスと驚きの約束を交わしていました。
それは、西郷との会談が失敗した場合は、慶喜をイギリスに亡命させる約束です。
この約束はパークスも了承していました。
つまり、会談が成功しても失敗しても慶喜の命は助けられたということです。
勝海舟の策略は西郷を1枚も2枚も上回っていたのです。
「江戸城無血開城」は本当に「無血」だったのか?
徳川慶喜と徳川家はその後どうなったのか?といいますと、慶喜は新たな謹慎の地である水戸に向かい、徳川家は田安亀之助(徳川家達)が相続し、駿河70万石へ移封となりました。
ところで、「江戸城無血開城」は本当に「無血」だったのでしょうか?
幕臣の川路聖謨は、江戸総攻撃が迫る中ピストルで自らの命を絶っていますし、小栗忠順も新政府軍に捕まり、斬首刑とされました。
それ以外にも、新選組や彰義隊との上野戦争、会津戦争と、「江戸城無血開城」後も多くの血が流れ続けました。
結局、「江戸城無血開城」とは将軍慶喜の血が流れなかっただけというふうにも感じられます。
その後、慶喜は元家臣たちと共に駿府に向かいました。
元家臣たちは食べるために畑を耕しましたが、生活は困窮します。
そのような状況の中、慶喜はカメラや絵画などの趣味に生き、女中との間に多くの子供を作る日々を過ごしました。
同時に、世の中は新政府に対する不満が噴出し、各地で不平士族の反乱が起こりました。
そんな混乱の時代においても、慶喜は一切政治に関わることはありませんでした。
その後、新政府軍のトップであった西郷隆盛は西南戦争で自害し、大久保利通は暗殺されます。
やがて時は流れ、元家臣であった渋沢栄一が、慶喜の名誉挽回、汚名返上のために「慶喜の伝記」を作りました。
これらの活動が認められ、1902年、慶喜は公爵を授爵しました。
一時は「朝敵」となり、「死罪」まで宣告された慶喜は一転して国家への偉大な勲功が認められ、最高の爵位が与えられたのです。
「江戸城無血開城」から34年後のことでした。
まとめ(超個人的見解)
現在では「江戸城無血開城」は美談として語られることが多いのですが、ここまでの流れを知ると、やや複雑な感情を抱かざるを得ません。
でも、歴史とはそういうものだとも思います。
映画やドラマのように全ての問題点が解決したラストが望めるわけもなく、多くの理不尽さと多くの血が流れた結果が「江戸城無血開城」だったのです。