悪党・楠木正成の銅像が皇居にある理由を徹底解説!

悪党・楠木正成の銅像が皇居にある理由を徹底解説! 歴史ミステリー(その他)

悪党・楠木正成の銅像が皇居にある理由を徹底解説!

楠木正成(くすのき まさしげ)といえば、鎌倉幕府から「悪党」と呼ばれた人として有名ですが、そんな楠木正成の銅像がなぜ皇居にあるの?と不思議に感じる人もいるでしょう。

そこで今回は「楠木正成の銅像が皇居にある理由」を解説します。

楠木正成の銅像が皇居にある理由

ちなみに、当時の「悪党」の意味は現代のものとはやや異なります。
「悪者・悪い人」という意味ではなく、「アウトロー」な印象で使われていました。
アウトローな武将 …ちょっとかっこいいですね!

後醍醐天皇の倒幕計画

結論からいいますと、楠木正成の銅像が皇居にある理由は、楠木正成が「皇室へ忠義」を貫き続けた人だからです。
そこで、楠木正成という人物を理解するために、当時の社会情勢を時系列にまとめてみます。

当時の日本の政治は鎌倉幕府が担っていました。
これに不満を抱いていた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、再び天皇中心の政治を行なうために、倒幕を決意します。
しかし、この倒幕計画は事前に幕府側にばれてしまい、後醍醐天皇は隠岐島(島根県)に島流しの刑となってしまいます。

隠岐島に島流しの刑となった後醍醐天皇

ところが、この事件がきっかけに、倒幕の勢いはさらに増していきます。
後醍醐天皇が隠岐島を脱出し、再び立ち上がると、各地の武将が天皇の元に集まってきました。
その中でも最も早く行動を起こしたのが楠木正成です。

さらに天皇軍には、後に室町幕府を起こすことになる足利尊氏(あしかが たかうじ)も加わり、遂に鎌倉幕府は滅亡します。
後醍醐天皇の悲願が達成されたのです。

ちなみに、皇居にある楠木正成の銅像は、隠岐島を脱出した後醍醐天皇を、39歳の楠木正成が兵庫の道筋でお迎えした時の姿です。

兵庫の道筋で後醍醐天皇をお迎えする39歳の楠木正成


天皇軍として戦い続けた楠木正成

その後、後醍醐天皇は「建武の新政(けんむのしんせい)」をスタートさせます。
倒幕に関わった武将たちへの論功行賞を行ないましたが、公家を優先する恩賞に納得できない武士たちの間で後醍醐天皇に対する不満が高まっていきました。

そして、遂に武家の代表格である足利尊氏と後醍醐天皇の戦いが始まります。

足利尊氏と後醍醐天皇の戦い

もちろん、楠木正成も武士なので足利尊氏側につくかと思われましたが、楠木正成は天皇側につくのです。

百戦錬磨の楠木正成は、足利尊氏軍に勝利するために見事な戦術を進言しますが、後醍醐天皇はそれを却下。
さらに、後醍醐天皇は無能な上官の無能な策を採用します。
それでも楠木正成は天皇軍として戦い続けます。
そして、最後は負けることがわかっている戦いに挑み、戦場で切腹しました。

最後の戦いの前に楠木正成・正行父子は最後の別れを交わした

このように、楠木正成は最後まで天皇への忠義を貫き続けた「忠臣」だったのです。
その結果、楠木正成の銅像が皇居に建てられることになったのです。

「北朝」系の皇居に「南朝」系の楠木正成の銅像が建てられた理由

ここで、歴史に詳しい方の中には↓このような疑問を感じる方もいると思います。

「明治天皇以降は北朝系の天皇なのに、なぜ南朝方についた楠木正成の銅像が皇居に建てられることになったの?」

ここで記した「北朝・南朝」とは、歴史の教科書で習った「南北朝時代」のことですね。

足利尊氏軍に敗れた後醍醐天皇は、その後吉野(奈良県)「南朝」を開きました。
これにより、京都(北朝)奈良(南朝)に2つの朝廷が並立することになるわけです。
そして、楠木正成は南朝を開いた後醍醐天皇のために戦っていましたから、当然「南朝」側の武将ということになります。

また、天皇の象徴である「三種の神器」を南朝が持っていたことから、徳川光圀(とくがわ みつくに・「水戸黄門」で有名ですね)が記した「大日本史」では「南朝=正統」と位置づけ、これが幕末まで定説となりました。

徳川光圀の「大日本史」で「南朝=正統」と位置づけた

一方、明治天皇「北朝」の末裔です。
(ということは、現天皇も「北朝」の流れということになります)
南北朝時代においては「北朝」と「南朝」は敵対関係にありましたから、なぜ「北朝」の末裔である現天皇が住む皇居に「南朝」側についた楠木正成の銅像があるの?と感じる人がいると思います。

その答えは、明治天皇の言葉にあります。

南北朝について語った明治天皇の言葉 「南北朝時代は南朝が正統で、北朝は間違っていたが、皇統統一後は北朝系の皇族が皇位を引き継いでいる」

「南北朝時代は南朝が正統で、北朝は間違っていたが、皇統統一後は北朝系の皇族が皇位を引き継いでいる」

わかりやすくいうと、南北朝時代は「北朝」と「南朝」が敵対関係にあったけれど、その時代の正統は「南朝」であるということ。
その正統である「南朝」側についた楠木正成の銅像が建てられることは何ら不思議なことではないのです。

ちなみに、1392年の南北朝合一の際には、「南朝」最後の天皇である後亀山天皇(ごかめやま てんのう)が「北朝」の後小松天皇(ごこまつ てんのう)に「三種の神器」を渡すことで、「北朝」も正統性を得ました。

南北朝の争いは明治維新にも影響していた!?

ところで、現代人の視点では、足利尊氏は「室町幕府を開いたヒーロー」というイメージがありますが(アンチも多いですけどね)、戦前のイメージは真逆でした。
後醍醐天皇を追放し、北朝を擁立した足利尊氏は極悪人・逆賊というイメージだったのです。

これは、先ほども出てきた水戸光圀が記した「大日本史」が「南朝=正統」と位置づけたことが大きく影響しています。

その証拠に、幕末時代、ある討幕派が足利尊氏の木像を徳川将軍家に見立てて首をはねるという事件が起きたほどです。
完全に「足利尊氏=敵」というイメージです。
現代とは全くイメージが異なりますね!

西郷隆盛が挙兵した大義名分「南朝方の天皇の子孫が実は手元にある」

さらに、明治維新を実現した西郷隆盛は「南朝方の天皇の子孫が実は手元にある」という大義名分で挙兵しました。
南北朝の争いが明治維新にも影響していたのですから、驚きです!

楠木正成の銅像について

最後に、皇居にある楠木正成の銅像について説明します。
銅像の高さと台座の高さがそれぞれ4メートル(合計8メートル)、重量は6.7トンというとても大きな銅像です。

原型製作に約3年、完成までに約10年の歳月をかけてつくられ、据付が完了したのは1900年(明治33年)でした。
現在はやや酸化して緑青色になっていますが、完成当時はブロンズ色(青銅色)だったそうです。
光り輝いていた姿をイメージできます。

また、楠木正成の銅像は、上野公園の西郷隆盛像、靖國神社の大村益次郎像と共に「東京の三大銅像」の1つに数えられています。

東京の三大銅像 西郷隆盛像 大村益次郎像 楠木正成像

ちなみに、楠木正成像の顔は正面とは反対側の皇居側を向いています。
これは皇居に対して顔を背けるのは失礼にあたるという理由から。
銅像の正面から見て顔が反対側を向いている、とても珍しい銅像なのです。

楠木正成像は、銅像の正面から見て顔が反対側を向いている

まとめ(超個人的見解)

楠木正成の銅像が建てられた1900年(明治33年)は、日本が軍事国家の色合いを強めはじめた時代でした。
楠木正成はどのような状況に陥っても天皇に忠義を尽くした人物でしたから、これが政府にうまく利用されたのです。

当時、いよいよ世界との戦争に突入していく中で「あなたたちも楠木正成のように天皇に忠義を尽くし、国のために戦いなさい」というメッセージを伝えるために銅像が建てられたのでしょう。

ちなみに、日中戦争の真っ直中である1940年(昭和15年)にも国民の戦意を高めるために、楠木正成を描いた映画「大楠公(だいなんこう)」が公開されました。

楠木正成を描いた映画「大楠公」

そんな楠木正成は、天皇のために戦い、死んだことから「悲劇のヒーロー」として取り上げられることが多いのですが、彼は本気で足利尊氏に勝てると思っていたはずです。
それほどの頭脳と経験値が楠木正成にはありましたからね。

ところが、味方(天皇軍)の動きがうまくいかず、結局負けてしまうことになります。
さすがの楠木正成も、ここまでは計算できなったのでしょう。

しかし、ここで楠木正成&天皇軍が勝っていたら、その後の歴史はどうなったのでしょうか?
当然、室町幕府は存在しないことになりますし、幕府がなければ武士の台頭もなかったので、その後の戦国時代も訪れなかったかもしれません。
そう考えると、楠木正成と足利尊氏の戦いはその後の日本の歴史を大きく動かした一大決戦だったのです。

楠木正成と足利尊氏の戦いはその後の日本の歴史を大きく動かした一大決戦だった

タイトルとURLをコピーしました