聖徳太子は実在した!?|厩戸王が聖徳太子になった理由を徹底解説!

聖徳太子は実在した!?|厩戸王が聖徳太子になった理由を徹底解説! 歴史ミステリー(その他)

聖徳太子は実在した!?|厩戸王が聖徳太子になった理由を徹底解説!

「聖徳太子(しょうとくたいし)」といえば、昭和時代のお札の顔になった人物で、「一度に10人の話を同時に聞き分ける」など、超人的なエピソードが残っていますが、本当に実在した人物なのでしょうか?

日本のお札に最も多く登場したのは聖徳太子

以前の教科書では「聖徳太子」と書かれていたのですが、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」という表現になっていることからも、「聖徳太子」とは架空の人物であり、実在しなかったのでは?という説があります。

そこで今回は「聖徳太子」が実在したのかどうか?について解説します。

「聖徳太子」は実在した人物です!

結論から先に言うと、「聖徳太子」は実在した人物です。
しかし、実際の「聖徳太子」は私たちがイメージする超人的な人物とは少しかけ離れています。

まず、「聖徳太子」は本名ではありません。
本名は「厩戸王(うまやとおう)」という名前です。

聖徳太子の本名は「厩戸王(うまやとおう)」

それでは、「厩戸王」とは誰なのか?といいますと、31代天皇である用明(ようめい)天皇の皇子として生まれ、19歳で33代・推古(すいこ)天皇の摂政となった人物です。


「聖徳太子」の代表的な業績の全てを「厩戸王」が行なったわけではない

次に「聖徳太子」の代表的な業績(といわれているもの)を説明します。

●「憲法十七条」の制定
●「冠位十二階」の制定
●遣隋使の派遣
●国史編纂
●仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)

これらの業務を全て「聖徳太子」が1人で成し遂げたとすれば、かなりすごい人物です。
しかし、どうやらこれは間違いのようです。
当然ですよね。
「厩戸王」がいくら有能だったとしても、ここまでの業務をたった1人でこなすのは、能力的にも物理的にも無理があります。

聖徳太子が法隆寺や四天王寺を建立した!?

「冠位十二階」の制定には「厩戸王」も関わっていたようですが、「憲法十七条」は「厩戸王」の時代よりもだいぶ後の時代に完成していますし、「遣隋使の派遣」は「厩戸王」の時代よりもだいぶ前の時代から行なわれていました。
つまり、先ほど説明した「聖徳太子」の代表的な業績の全てを「厩戸王」が行なったわけではないということです。

ちなみに、「一度に10人の話を同時に聞き分ける」という逸話も真実ではありません。
真実は、1人ずつ順番に10人の話を聞いた上で、それぞれに対して明快な回答を行なったようです。

聖徳太子は一度に10人の話を同時に聞き分けることができた!?

余談ですが、西暦636年にまとめられた中国の「隋書(ずいしょ)」という史料には、「厩戸王」が生きていた時代の日本の様子が具体的に記されています。
当時の日本は文字で記録をする文化がまだ発達していませんでした。
そのような状況の中で、「憲法十七条」をまとめることなどできるわけがありません。
(そもそも604年に「憲法十七条」が制定されたということがおかしいわけです)

それでは、なぜ「厩戸王」が「聖徳太子」という名前になり、超人的なエピソードが生まれたのでしょうか?
そこには、いくつかの「理由」がありました。

「聖徳太子」は後世に作られた架空の人物!?

「厩戸王」が死んで50年後、皇位継承権争いである「壬申の乱(じんしんのらん)」が起きます。
この時、天皇の権威は失墜していましたが、勝者となった天武天皇(てんむてんのう)は、再び天皇中心の国家づくりを目指します。

ここで、天武天皇は「厩戸王」に注目します。

672年「壬申の乱」が勃発! 大海人皇子(40代・天武天皇)・大友皇子(39代・弘文天皇)

「厩戸王」の時代に行なわれた数々の施策の素晴らしさに気づいた天武天皇は、「厩戸王」をモデルに、これら全ての施策を1人で行なったスーパーマン・聖徳太子を作り上げたのです。

ちなみに、「聖徳太子」という名前は「聖に等しい徳をもった大王家の男子」という尊称です。

なぜ、そのようなことをする必要があったのか?といいますと、「聖徳太子」の超人ぶりを誇大表現することにより、その血筋を受け継ぐ天皇家の優秀性と、天皇家こそが日本を統治するにふさわしい家系であることを知らしめるためです。

つまり、「厩戸王」は実在する人物だけど、「聖徳太子」は後世に作られた架空の人物ということになります。

「日本書紀」に「聖徳太子」の活躍が記されている理由

また、古代日本の歴史を書き記した「日本書紀」にも「聖徳太子」の華々しい活躍が記されていますが、そもそも「日本書紀」は720年に完成したものです。
「厩戸王」の死から約100年後に完成したものですから(厩戸王は622年死亡説が有力)、「日本書紀」に記されている「聖徳太子」の活躍を100%信じることはできません。

それでは、なぜ「日本書紀」に「聖徳太子」の華々しい活躍が記されているのか?といいますと、実はこれは藤原不比等(ふじわらのふひと)の策略によるものです。

「日本書紀」に聖徳太子の活躍が記されているのは藤原不比等の策略

藤原不比等には2つの目的がありました。
1つ目は、日本の皇室が中国の皇帝に劣らないことを示すため。
当時の中国は日本よりも文化が進んだ先進国です。
その先進国・中国に対して、日本にも「天皇」という、中国の皇帝にも負けないほどの立派な君主がいることを示したかったのです。
そのために、超人的な「聖徳太子」を創り上げ、その血筋を受け継ぐのが天皇家であると示したかったのです。

2つ目の目的は、ライバルの蘇我氏の権威を落とすため。
当時、藤原不比等は自分の娘が生んだ皇子(後の聖武天皇)の即位にこだわっていました。
その後、聖武天皇が即位。
そこで、藤原不比等は蘇我氏の功績(仏教興隆など)を「聖徳太子」が行なったものとして「日本書紀」を作り上げることで、蘇我氏の権威を落とすことができました。

ライバル・蘇我氏の権威を落とすために聖徳太子を利用した 蘇我氏の全盛時代を築いた蘇我馬子 不比等の娘の子である聖武天皇 藤原一族の繁栄を築きたい藤原不比等

これでライバル・蘇我氏の存在はなくなり、皇位を自分の子孫で独占することに成功しました。
つまり、藤原一族の繁栄を築きたいという思いから、「聖徳太子」を利用したのです。

まとめ(超個人的見解)

…というわけで、「聖徳太子」が実在したのかどうか?について解説してきました。
結論としては、「厩戸王」は実在した人物ですが、私たちがイメージする超人的な人物像(=聖徳太子)は後世に作られたものだったということです。

いつの時代も、勝者によって歴史は書き換えられていきます。

いつの時代も勝者によって歴史は書き換えられる

1,000年以上後に生まれた私たちは、その歴史が真実なのか?書き換えられたものなのか?を冷静に判断する必要があります。

しかし、それは簡単なことではありません。
1つの史料から判断するのではなく、複数の史料(時には外国の史料も含め)から複合的に判断することで、ようやく歴史の真実が見えてくるわけです。

特に「聖徳太子」の話はこれまであたかもそれが真実であるかのように語り継がれきたため、昭和時代にはお札の顔にもありましたが、その後の研究により、「厩戸王」は実在したものの、「聖徳太子」というキャラクターそのものは後世に創られたものだとわかり、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」という表現になっているわけです。

そう考えると、今私たちが「真実」と思っている出来事も、今後の研究次第で変わる可能性は十分にあります。
例えば、織田信長は「本能寺の変」で死んでいなかった…!?とかね。

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