織田信長 5つの生存説|実は信長は本能寺の変後も生きていた!?
明智光秀の謀反により「本能寺の変」で自害したといわれる織田信長ですが、実は生存していた(生きていた)という説があります。
日本の歴史の中でもトップクラスの人気者である信長だからこそ、「生きていてほしい」という願望や「生きていたら」という妄想から、いつしか多くの生存説が生まれたのでしょう。
そこで、代表的な「織田信長 5つの生存説」を解説します。
「織田信長 生存説」が生まれた最大の要因
「織田信長 生存説」が生まれた最大の要因は、信長の遺体を発見することができなかったから。
光秀は、本能寺が焼失した後に信長の遺体を探させたのですが、いくら探しても見つからなかったそうです。
江戸時代に書かれた「信長記」には当時の光秀の様子を次のように記しています。
「信長記」は江戸時代に書かれたものなので、史実としての信憑性は決して高くはありませんが、この一文から光秀がかなり動揺していたことがわかります。
また、「山崎の戦い」で光秀を破った豊臣秀吉も信長の遺体を探したものの見つかりませんでした。
その後、秀吉は京都で信長の葬儀を行ないますが、遺体がないので、信長と等身大の木像を焼いて、これを遺灰として骨壺に入れたといわれています。
信長の遺体にこだわる理由
ところで、彼らはなぜそこまで遺体にこだわるのでしょうか?
戦国時代において、敵将の遺体=首はとても重要なものでした。
戦いに勝った武将が、負けた武将の首を天下に晒すことによって、勝った武将の正当性を広く世の中に伝えることができたからです。
つまり、勝った者が正義であり、負けた者は罪人となるのです。
現代人の私たちから見れば「明智光秀=裏切者」というイメージがあるかもしれませんが、「本能寺の変」で信長の首を掲げていたら、光秀のイメージは大きく変わっていたかもしれません。
「明智光秀=織田信長を破った戦国最強の武将」というイメージになった可能性は十分にあります。
しかし、信長の遺体は見つかりませんでした。
これをうまく利用したのが豊臣秀吉です。
信長の家臣たちに対して「信長様は生きている。共に光秀を討とう!」と手紙で呼びかけ、光秀討伐を果たすことができたのですから。
また、信長が生きているという噂が広まったことで、「本能寺の変」の後に明智光秀につく武将が増えませんでした。
これにより、光秀の運命は尽きてしまったわけです。
信長の首の有無で、戦局が大きく変わったということです。
敵将の遺体(首)の重要性をご理解いただけるのではないでしょうか。
そこで、ここからいよいよ「織田信長 5つの生存説」を解説していきます。
織田信長 5つの生存説① 本能寺の地下通路から脱出説
当時の本能寺は織田軍の補給基地の役割も担っており、火薬等を貯蔵していることから、地下通路があったといわれています。
信長はその地下通路を利用して脱出したという説です。
ちなみに、地下通路の脱出先は南蛮寺です。
南蛮寺は、明智光秀が黒人武士で有名な弥助(やすけ=信長の家臣)を捕えた後、弥助の身柄を預けた寺でもあります。
しかし、南蛮寺に預けられて以降の弥助の消息は不明です。
そこで、信長が南蛮寺に脱出し、再び弥助と合流した可能性があります。
織田信長 5つの生存説② 加賀藩(石川県)で生存していた説
加賀藩(現在の石川県南部)の2代藩主・前田利長(まえだ としなが)の正室・玉泉院は、織田信長の4女・永姫(ながひめ)です。
利長が永姫と共に本能寺に向かう途中、滋賀県の膳所町(ぜぜちょう)あたりで、本能寺から逃げてきた信長の家臣と遭遇したという記録が残っています。
この時に信長とも遭遇したか、または信長が前田家との縁をたどって加賀藩に逃げ込み、前田家に庇護されたという説があります。
それ以外に、当時7歳の永姫を前田家の領土である尾張国へ逃がして、利長自身は織田信雄(おだ のぶかつ=信長の次男)の軍に加わった、または蒲生賢秀(がもう かたひで=信長の家臣)と合流して日野城に立て籠もったという説もあります。
いずれにしても、前田家と信長の信頼関係は厚く、前田家が信長を助けた可能性は十分にあります。
(前田利長の「長」は、信長から「長」の文字をもらったといわれています)
その証拠に、前田利長は早い段階で藩主の座を弟の前田利常(まえだ としつね)に譲っています。
当時は既に徳川の世になっており、織田信長を庇護したことがばれないようにするため、前田利家が利長を早々に隠居させ、信長を守ることを命じたといわれています。
また、金沢市東山には、信長の兄弟姉妹や子供、家臣らが多く住んでいたので、信長はこの地で僧侶になったという説もあります。
織田信長 5つの生存説③ 薩摩藩(鹿児島県)へ逃亡説
信長は本能寺から脱出し、薩摩(鹿児島県)に逃げ延びたものの、戦の傷が癒えないままに間もなく亡くなったという説があります。
薩摩の海岸に流れ着いた男が「自分は織田信長だ」と名乗ったが、戦の傷で衰弱してすぐに死んだといわれています。
しかし、薩摩はかなり遠いですし、これは豊臣秀頼や真田幸村らの薩摩生存説から派生して生まれた説である可能性が高いですね。
(当時から「生存説といえば薩摩」という風潮もあったようです)
※豊臣秀頼や真田幸村らの薩摩生存説については↓こちらをお読みください。
また何よりも、そもそも薩摩まで行かなくても、当時中国地方で陣取っていた秀吉と合流すればいいわけなので、薩摩まで脱出する意味がありません。
織田信長 5つの生存説④ 秀吉による大阪城幽閉説
「本能寺の変」後、信長は秀吉と合流したものの、信長の存在を邪魔に思った秀吉が大阪城に幽閉したという説です。
信長と合流した時点で秀吉は安心したと思いますが、信長の憔悴し切った様子を見た秀吉は「ここが天下を取るチャンス!」と感じたのかもしれません。
また、そこには黒田官兵衛の助言があったことも十分に考えられます。
しかし、信長を目の前にして幽閉する度胸が、果たして秀吉にあったでしょうか?
おそらく以前と同様に信長の家臣として振る舞うことしかできなかったはず。
それほど秀吉にとって信長は偉大であり、恐怖の対象であったでしょうから。
そう考えると、「秀吉による大阪城幽閉説」もあまり信憑性が高くはありませんね。
織田信長 5つの生存説⑤ ヨーロッパへ逃亡、そして世界制覇野望説
信長は本能寺を脱出後、鉄船でフィリピンまで逃げ、イエズス会の協力を得てヨーロッパへ渡ったという説があります。
織田信長の生存説の中では一番ロマンがある説ですね。
漫画「夢幻の如く」(本宮ひろ志)では、信長が本能寺から落ち延びて、偽名で秀吉の天下統一に協力していくという話が描かれています。
その後、正体を明かした信長は世界制覇を目指して中国やヨーロッパに向かうという壮大なストーリーです。
信長なら世界制覇もできるのでは?と思えるから不思議です。
織田信長 5つの生存説【番外編】信長の遺体を埋葬した2つの寺院の言い伝え
一方、やはり信長は「本能寺の変」で自害し、遺体は本能寺から運び出されたという説もあります。
その証拠に、信長の遺体を埋葬したという言い伝えが残る寺院が2つあります。
1つ目は、阿弥陀寺(京都市)で、以前から信長と親交があった阿弥陀寺の清玉上人(せいぎょくじょうにん)が「本能寺の変」後、信長の遺体を運び込み、埋葬したという言い伝えです。
事実、阿弥陀寺の境内には「織田信長信忠討死衆墓所」があり、信長だけでなく、子の信忠や家臣の森蘭丸など、一連の戦いで討ち死にした人々が弔われています。
ただし、実際に阿弥陀寺に信長たちの遺体が埋葬されたかどうはわかっていません。
本能寺や妙覚寺で見つかった遺骨を集めて、信長父子や家臣たちの「討死衆」として供養したものかもしれません。
2つ目は、京都から遠く離れた駿河国(静岡県)の西山本門寺です。
西山本門寺の第18世日順上人の父が原宗安(はら むねやす)という武士で、原宗安が信長の遺体を運び出し、西山本門寺に埋葬したという言い伝えです。
埋葬した場所には柊(ひいらぎ)が植えられ、これは静岡県の天然記念物に指定されています。
ただ、京都から駿河国に行くまでには、信長の領国である尾張国(愛知県)を経由するわけで、わざわざ遺体を駿河国まで運ぶよりも、尾張国で信長の一族や家臣に渡すこともできたはず、と考えると、こちらも信憑性が低く感じられます。
まとめ(超個人的見解)
いかがでしたか?
織田信長は冷酷で強い、日本の歴史の中でも他にはない強烈なキャラクターとして君臨しています。
また、信長は自らを「第六天魔王」と称していました。
魔王であれば、そう簡単に死ぬはずがない。
だから、何らかの方法で生き延びていたはずだ!
そんな願望や妄想から多くの生存説が生まれました。
その信長の幻想は現代まで引き継がれており、常に多くのドラマや映画、小説、漫画の題材になっています。
仮に「本能寺の変」後生き延びていたら、何らかの足跡が残っていたはずですが、その後の足跡がほとんどないことから、やはり信長は本能寺で死んだと見るのが適切でしょう。
しかし、人生の絶頂期で死んだこと、家臣の明智光秀の謀反により自害したことが、信長をさらに魅力的なヒーローにしていることは間違いありません。
世界の歴史を見渡してみても、信長ほど強烈な個性を持った武将はほとんどいません。
まさに、信長は「第六天魔王」だったのかもしれませんね。