豊臣秀頼の最後|3つの説「自刃説・他殺説・生存説」

豊臣秀頼の最後|3つの説「自刃説・他殺説・生存説」 歴史ミステリー(戦国時代編)

豊臣秀頼の最後|3つの説「自刃説・他殺説・生存説」

1615年5月8日、大坂夏の陣で敗れた豊臣秀頼は、母・淀殿と共に大阪城の中で自刃、豊臣家は滅亡しました。
秀頼、享年23歳(満21歳)でした。

…と一般的には言われていますが、実は「大阪城で自刃説」以外に「殺された説」「鹿児島へ逃亡した生存説」があります。
それぞれ解説いたします。

秀頼は「自刃」したのか?それとも「殺された」のか?

秀頼が自害したことは「言緒卿記」など複数の書物に記載されているので、かなり信憑性が高い説となります。
ところが、「本光国師日記」という書物には↓このような記述があります。

大坂城中の唐物倉に秀頼ならびに御袋(淀殿)、大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)以下、付女中衆が数多く籠もり降参してきた。井伊掃部、安藤対馬が検使として詰め、倉へ鉄砲を撃ち掛け、皆殺しにし火を掛けた。

この記述を見ると、秀頼たちは降参してきたものの、それが認められず鉄砲で射殺されたことになります。
つまり、「自害」ではなく「殺された」ということです。
その一方で、「自刃説」を唱える書物も数多く残されています。
大坂の陣に参戦していた伊達政宗の書状には↓このような記述があります。

秀頼又御袋も焼残りの土蔵にはいり御座候、御腹を切らせ御申候、御袋もかねての御口ほどなく候て、むざと御果候

「駿府記」には↓このような記述があります。

大御所様(家康)は井伊掃部助直孝を召し、秀頼様と母君以下帯曲輪に籠っている人びとに対し切腹を命じた

「鉄砲で殺された」のか「切腹を命じられた」のか?
…いまだにはっきりとわかっていません。

秀頼は薩摩(鹿児島)へ逃亡した!?

大坂の陣の後、死んだはずの秀頼が実は生きているという「生存説」が生まれます。
その最大の原因は、秀頼の死体が確認できていないこと。
大阪城が落城した後に家康軍が入城すると、そこには真っ黒になった死骸が複数転がっており、それは男女の区別さえできないほど焼けていました。
もちろん、どれが秀頼のものかを判別することもできません。
これが、秀頼の「生存説」を生み出すきっかけになったのです。

それでは、秀頼は一体どこに逃げたのか?といいますと、最も信憑性が高いのが薩摩(鹿児島)への逃亡説です。
しかも、豊臣軍の真田幸村が秀頼を連れ出して薩摩まで逃げたというのです。
その証拠に、大坂の陣の直後、京都や大阪で↓このようなわらべ歌が流行しました。

花の様なる秀頼様を、鬼のやう成る真田(幸村)がつれて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ

秀頼は大阪城の地下の「真田の抜け穴」から脱出した!?

大阪夏の陣の間、大阪城は家康軍が完全包囲しています。
そのような状況の中、秀頼は一体どうやって大阪城を脱出することができたのでしょうか?
実は、大阪城の地下には「真田の抜け穴」と呼ばれる抜け道があったようです。
その地下道を利用して脱出したのです。

【豊臣秀頼の最後・生存説】大阪城の地下には抜け穴があった!?

これを裏付ける話があります。
例えば、姫路城には昔33ヶ所の井戸がありました。
そのうちのいくつかは「抜け穴」の出入り口の役割を果たしていました。
もちろん、姫路城以外のほとんどのお城にも井戸はあります。
よくよく考えてみれば当然かもしれません。
戦争ではお城に籠って戦う籠城戦が行なわれることも珍しくはないので、籠城戦に備えてお城を設計するはずです。
さらに、戦局が不利な場合はお城から脱出するための「抜け穴」をつくるのも当然のことといえるでしょう。

さらに、大阪冬の陣で、家康の使者が大阪城に遣わされた際、新鮮な鯛の刺身で接待されました。
豊臣側が一体どうやって鯛の刺身を手に入れたのか?といいますと、地下の抜け穴を使って城外に出て堺の方まで生魚を買い出しに行ったそうです。

また何よりも、秀頼の正室であった「千姫」や秀頼の子である「国松」は、戦いの最中に大坂城から脱出することに成功しています。
もうおわかりだと思いますが、秀頼が大阪城から脱出することは十分可能なのです。

ちなみに、この秀頼の脱出劇は、随分前から計画されていたそうです。
徳川家康が天下人になった際、大坂城に出仕していた馬場文次郎が「いずれは豊臣氏が滅ぼされるかもしれない」と危機感を感じ、薩摩の島津義弘に相談し、亡命の受け入れ態勢を整えていたのです。

薩摩(鹿児島)と豊後(大分県)に残る豊臣秀頼の名前

豊臣秀吉の家臣に木下家定(秀吉の正室である北政所のお兄さん)という人物がいました。
家定は、関ヶ原の戦いの功績により家康から豊後国(大分県)日出(ひじ)に3万石を与えられました。
その後、大阪の陣の際は徳川方として参戦し、備中島に陣取りました。
備中島は、大坂城外の天満川の上流左岸周辺あたりのエリアです。
家定はどうしても備中島にこだわったそうです。
その理由は…
備中島には、先ほど説明した大阪城の「抜け穴」と通じる抜け穴があり、家定はわざと徳川方で参戦し、秀頼の脱出路を確保したのです。

大阪の三光神社には「幸村の抜け穴」と呼ばれる横穴が実在します

また、家定には7人の男子がおり、そのうち6人までの名前が家系図に記されているものの、残り1人は名前さえ記されていませんでした。
ただし、外記として「宋連(そうれん)と号す」という解説が記されていました。
同時に、薩摩藩の「井知地文書」という書物の中に、薩摩に逃げ延びた秀頼が「宋連」と号していたと書かれてあります。
同じ九州といえど、薩摩(鹿児島)と豊後(大分県)はある程度距離が離れています。
その2つの場所で同時に「宋連」と記されていることからも、秀頼が生存していた可能性は高いといえるでしょう。

さらに、当時の後水尾(ごみずのお)天皇は豊臣秀頼が生存していることを知っており、密かに薩摩藩主に勅書を送り、「宋連を置くように」と指示したという説も残っています。

豊臣秀頼は薩摩(鹿児島)で無銭飲食をして村人を困らせていた!?

それでは、薩摩に脱出した秀頼は一体どこに住んでいたのか?といいますと、薩摩へ到着後、古屋敷という場所に上陸し、島津家の出迎えを受けて、谷村(現在の谷山)という場所に住みついたそうです。
秀頼はその後再起を図ることなく、鹿児島で妻を娶り、45歳で病死しました。
(これまでの無念から自刃したものの、表向きは病死として葬られたという説もあります)

今でも谷山には秀頼のお墓が残っています。
大河ドラマ「真田丸」で豊臣秀頼役を演じた中川大志さんも墓参りをされたようです。

豊臣秀頼の墓 谷山 中川大志

ちなみに、鹿児島では無銭飲食をする人のことを「谷山の食い逃げ」と言います。
秀頼は大酒飲みで、無銭飲食をして村人に嫌われたという話があります。
その理由は、秀吉の子供である秀頼は生まれてからお金を持ったことがなかったからです。
(お殿様にお金は必要ありませんからね)

また、無銭飲食をする人(=秀頼)は薩摩の殿様の客人といわれていたので、村人は何も言えずに困ったそうです。
この出来事から、鹿児島では無銭飲食をする人のことを「谷山の食い逃げ」と言うようになりました。
村人にとっては迷惑だったかもしれませんが、秀頼に悪気はなかったのかもしれませんね。

真田幸村も薩摩(鹿児島)で生きていた!?

一方、秀頼と共に薩摩に逃れた真田幸村はどうなったのか?といいますと、秀頼と別れた後、鹿児島県南九州市雪丸という場所に住んでいたそうです。
地元では「雪丸」という地名は「幸村」をもじったものだと伝えられています。
その後、真田幸村と地元の百姓の娘との間に男の子が生まれます。
しかし、時代は徳川が支配する江戸時代。
彼(幸村の子)は、真田幸村の子孫であることを隠すように、真田の2文字の間に「江」という字を挟んだ「真江田(まえだ)」の姓を名乗りました。
その真江田家の墓には真田の家紋である「六文銭」が刻まれています。

なぜか薩摩(鹿児島)に六文銭が…!?

鹿児島県南九州市頴娃町雪丸地区に実在する真田幸村の墓

まとめ(超個人的見解)

悲劇のヒーロー・豊臣秀頼の死については「大阪城で自刃説」「殺された説」「鹿児島へ逃亡説」の3つの説が有力視されています。
「大阪城で自刃説」「殺された説」については複数の書物に当時の状況が記されているので信憑性が高く感じられますが、私の個人的見解としては「鹿児島へ逃亡説」最有力と感じています。
その最大の理由は、秀頼が薩摩(鹿児島)で無銭飲食をしていたことです。

歴史を遡れば、徳川家康は(秀頼の父である)豊臣秀吉の家臣的な位置づけでした。
秀吉も家康の実力を知っており、他の家臣とは別格の扱いをしていました。
つまり、秀吉と家康の関係性は悪くはなかった(良好)ということです。
しかし、家康が天下統一を果たした後、豊臣秀頼が最大の敵になることはわかっていました。
世の中の風潮としても、全国的に秀吉の人気は高く、その嫡男である秀頼に期待する雰囲気が多かったようです。

だからこそ、家康には豊臣家を滅ぼす必要がありました。
ここで再び秀頼が天下を取れば、いつまで経っても戦国時代は終わらず、泰平の世は実現しませんからね。
そこで、家康は大坂の陣で豊臣家と戦うことを選択したのです。

しかし、先ほども書いた通り、家康にとって豊臣家は恨む相手ではありません。
そこで、こっそりと秀頼たちを薩摩に逃がし、書物などには「秀頼は死んだ」と書かせたのではないでしょうか。
その代わり、秀頼が二度と挙兵しないように、真田幸村を監視役として共に逃亡させます。
もちろん、真田幸村は家康の敵でしたが、幸村のお兄さんである真田信之は家康側についていたため、信之を通じてそのような指示を出すことができます。

その後、秀頼は鹿児島で大酒飲みで無銭飲食をするダメな人を演じ、家康に対して挙兵の意思はないことを示したのだと思います。
そうでなければ、薩摩(鹿児島)にこれほど多くの痕跡が残っていませんし、こう考えると全ての辻褄が合います。

そう考えると、豊臣秀頼も泰平の世である江戸時代を切り開いた功労者の1人だったのかもしれませんね。

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