伴天連追放令(バテレン追放令)の真相|日本人の奴隷化を阻止した秀吉の決断

伴天連追放令(バテレン追放令)の真相|日本人の奴隷化を阻止した秀吉の決断 歴史ミステリー(戦国時代編)

伴天連追放令(バテレン追放令)の真相|日本人奴隷化を阻止した秀吉の決断

伴天連追放令(バテレン追放令)とは、1587年に豊臣秀吉が発令したもので、キリスト教の布教を禁止すると共に、キリスト教宣教師を国外に追放することを決めた法律です。

伴天連追放令(バテレン追放令)

そもそも日本は神国・仏教国であり、邪法キリスト教が説かれることは不適当という理由から発令されたのですが、この法律が発令された裏には驚くべき事実があったのです。
それは、日本人の「奴隷化」です。

日本人が「奴隷」として海外に売られていた!?

豊臣秀吉が天下を統一したまさにその頃、多くの日本人が「奴隷」としてポルトガルに売られていきました。
その数は5万人以上といわれています。

5万人以上の日本人が「奴隷」として売られていた!

日本人奴隷たちは、マカオに駐在していた白人のもとで働かせられたり、インドやアフリカ、遠くはアルゼンチンやペルーにまで売られた例もありました。

事実、1582年ローマに派遣された天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)の一行が、世界各地で日本人が奴隷として働かされている場面を目撃しています。

また、日本人が「奴隷」としてポルトガルに売られている時の様子がわかる書物があります。
秀吉の右筆(秘書の役目)である大村由己(ゆうこ)「九州動座記」に次の記述があります。

日本人を数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。 地獄の呵責よりもひどい。 そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。 近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。 キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する。

まさに、地獄のような場面だったのでしょう。

秀吉が目にした驚きの光景とは!?

九州平定を終えた秀吉は、筑前箱崎(福岡市)で驚きの光景を目にします。
日本人が「奴隷」としてポルトガル商人に買われ、次々と船に載せられる光景です。

そこで秀吉は、キリスト教布教の総本山・イエズス会の日本支部トップであるガスパール・コエリョ「ポルトガル人はなぜ日本人を買い、ポルトガルに連れていくのか?」と問い詰めます。

秀吉はイエズス会のガスパール・コエリョを詰問

すると、コエリョは次のように答えます。

「ポルトガル人が日本人を買うのは日本人が売るからだ。もし殿下(秀吉)がこれを望まないのであれば、日本人を売ることを止めるように命じて、これに背いた者を重刑にすればいいのでは?」

つまり、「日本人を買うポルトガル人」が悪いのではなく、「日本人を売る日本人」が悪いのだと言うのです。
コエリョの反論は苦し紛れのようにも感じますが、当時の西欧の商人にとって奴隷交易はごく当たり前の商取引でした。

そもそも、1452年にローマ教皇がポルトガル人に対して「異教徒を奴隷にしてもいい」という許可を与えているほどですからね。

また、当時のヨーロッパではアフリカから黒人奴隷を連れてきて、重労働をさせていました。
奴隷が当たり前の時代だったのです。

当時のヨーロッパでは「 奴隷」が当たり前だった

ポルトガル人が日本人を買うのは2つの理由がありました。
1つは男性の労働力であり、もう1つは性的欲求を満たすための女性奴隷です。
ポルトガル人のこの蛮行は日本だけでなく、中国でも同様に行なわれました。

もちろん、全てのポルトガル人が蛮行をしていたわけではありません。
キリスト教の宣教師たちは彼らの蛮行を恥じて諫めましたが、ポルトガル商人たちの蛮行が収まることはありませんでした。

そこで、秀吉はコエリョに対して日本人の売買を即刻停止するように命じ、↓こう言いました。

「既に売られてしまった日本人を連れ戻すこと。
それが無理なら、助けられる者たちだけでも買い戻す!」

日本のトップとしての威厳を感じる言葉です。

1587年、遂に「伴天連追放令(バテレン追放令)」発令!

もともと秀吉は南蛮貿易(ポルトガルなどの外国との貿易)に対して疑問を感じていました。
彼らは日常的に肉を食べるし、南蛮貿易が盛んになればなるほど人身売買が増えていたからです。
(当時の日本は肉食文化ではありませんでした。こっそり食べる人はいましたが)

そこで1587年、秀吉は遂に「伴天連追放令(バテレン追放令)」を発令します。

1587年、秀吉は遂に「伴天連追放令(バテレン追放令)」を発令

キリスト教の布教を禁止すると共に、キリスト教宣教師を国外に追放することを決めた法律です。
(伴天連(バテレン)とは、ポルトガル語で「宣教師」を意味するパードレが訛ったものです)

「伴天連追放令(バテレン追放令)」発令後、全国のイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊されました。

この「伴天連追放令(バテレン追放令)」は歴史的にとても有名ですが、これを決意した裏には「これ以上日本人を奴隷にするわけにはいかない!」という秀吉の熱い思いがあったのです。

秀吉は日本の植民地化を未然に防いだ最大の功労者

秀吉が「伴天連追放令(バテレン追放令)」を出したのには、もう1つ理由がありました。
それは、日本の土地がどんどんイエズス会のものになっていたからです。
例えば、キリシタン大名の大村純忠や有馬晴信は自分の領地をイエズス会に寄進していました。

キリシタン大名らが自分の領地をイエズス会に寄進していた

いくら信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土を寄進することに秀吉は違和感を感じたのです。
この秀吉が感じた違和感は正解でした。
これこそが、西欧人が異国を侵略する際の常套手段だったからです。

まず最初に宣教師を送り、その後商人、最後に軍隊を送ってその国を乗っ取る植民地化のお決まりパターンだったのです。

さらに、「伴天連追放令(バテレン追放令)」から10年後の1597年、秀吉はスペイン人の宣教師・修道士26人を長崎で処刑しました。
(はりつけになった彼らは、最期までともに祈り、聖歌を歌いながら殉教を遂げたそうです)
その理由は、スペイン人はポルトガル人よりも露骨に日本の植民地化を推し進めてきたからです。

スペイン人宣教師・修道士26人を長崎で処刑

「日本人奴隷」という裏の事情を知らない人が「秀吉はスペイン人の宣教師・修道士26人を長崎で処刑した」という事実を知ると、秀吉はとても残忍な人間というイメージを持つかもしれません。
しかし、実は秀吉は日本のトップとして、日本の領土を守り、西欧からの植民地化を未然に防いだ最大の功労者ともいえるのです。

まとめ(超個人的見解)

ただし、秀吉を100%賞賛することもできません。
秀吉が朝鮮半島に侵攻した「文禄・慶長の役」では、朝鮮人を奴隷として働かせていた事実もあるからです。
慶長の役に従軍した安養寺(大分県臼杵市)の僧・慶念が記録した「朝鮮日々記」には次のように記されています。

日本から様々な商人たちが朝鮮にやってきたが、その中に人商いをする者も来ていた。 奥陣のあとをついて歩いて、老若男女を買うと、首に縄を括りつけて一ヵ所に集めた。 人買商人は買った朝鮮人を先に追い立て、歩けなくなると後から杖で追い立てて走らせる様子は、さながら阿防羅刹(地獄の鬼)が罪人を攻める様子を思い浮かべる。

朝鮮人奴隷が逃亡しないように首に縄を括りつけ、後ろから追い立てるようにして、彼らを誘導したといいます。
その後、朝鮮人は船で日本へ運ばれ、日本で転売されたり、ポルトガル商人らに売られました。
また、朝鮮人奴隷の中には日本人と結婚する者もいて、その子孫は現代日本にも多く存在するといいます。

世の中の事象には全て「表」と「裏」があります。
表面だけを見てその物事を見ると、誤った判断をする可能性があります。
歴史における「奴隷」はその最たる事象といえるでしょう。

一方、秀吉の心の中を読み取ると、そこにはやはり「日本に対する愛情」を感じます。
ポルトガル人の日本人奴隷には猛烈に反対しましたが、「文禄・慶長の役」では朝鮮人を奴隷として労働させています。
ここに大きな矛盾を感じますが、朝鮮人は日本人ではありませんから、秀吉の中では何の矛盾もないのでしょう。
この秀吉の日本愛が植民地化を防いだわけですから、その部分において秀吉はおおいに賞賛されるべきです。

伴天連追放令(バテレン追放令)の真相 秀吉の「日本愛」が日本人奴隷と植民地化を防いだ!

しかし、「日本人さえ良ければそれでいい」という考え方は、スペイン人やポルトガル人のそれと全く同じではありますが…。

いろいろな矛盾を含んだものが「歴史」なのかもしれませんね。

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