加藤清正の最後 4つの死亡説|徳川家康に毒殺された!?
加藤清正(かとう きよまさ)といえば、「賤ヶ岳の七本槍」の一人として大活躍した他、朝鮮出兵では相手から「鬼将軍」と恐れられた武将です。
また、熊本城など築城の名人でもあり、まさに強くて才能あふれる戦国武将でした。
そんな清正は「関ヶ原の戦い」の後に急死します。
その原因は「毒殺された」という説があるのです。
清正はなぜ毒殺されたのか? …その謎を解説していきます。
その前に、清正の人生を簡単に説明いたします。
「関ヶ原の戦い」で徳川家康率いる東軍についた理由
加藤清正は元々豊臣秀吉の親戚であり、秀吉の家臣として出世していきました。
ところが、秀吉が死んだ後に起こった「関ヶ原の戦い」では、秀吉の最大のライバルである徳川家康率いる東軍につきます。
そして、この戦いで勝利し天下統一を果たした家康は、その後「大坂の陣」で豊臣家を滅ぼしてしまいます。
結果からいうと、清正は「豊臣家滅亡」の手助けをしたことになります。
なぜ、そのような状況になったのか?といいますと、そこには石田三成(いしだ みつなり)との対立がありました。
加藤清正も石田三成も豊臣恩顧の家臣ですが、以前からこの2人は仲が悪かったんですね。
そんな石田三成が率いる西軍にはどうしてもつくことができなかったのです。
もちろん、清正は豊臣家を敵にまわすことは考えていません。
当時、徳川家康も秀吉の家臣だったので、秀吉の死後は家康が豊臣家を守ってくれると思っていたようです。
しかし、結果は清正が望む形にはなりませんでした。
つまり、清正は皮肉にも「豊臣家滅亡」の手助けをしたことになったわけです。
徳川家康との会見後に急死!
運命の日は1611年3月28日です。
その日、徳川家康は豊臣秀頼(秀吉の嫡男)と二条城で会見します。
この会見で清正は、秀頼の身に何かあれば家康と刺し違える覚悟で秀頼に帯同しました。
会見は無事終了しましたは、秀頼を大阪城に送り届けた後、熊本へ帰る途中で清正は急に体調を崩し、1ヶ月後に亡くなりました。
この時の清正の症状が記された資料には「高熱が出て、ろれつが回らず、身体が焦げたように黒くなった」とありました。
家康との会見後に急死したことから、やがて「徳川家康による毒殺説」が囁かれるようになったのです。
その1 徳川家康による毒殺説
徳川家康と豊臣秀頼の二条城での会見において、家康は「毒饅頭」を用意していました。
もちろん、秀頼を暗殺するためです。
しかし、単純に饅頭を差し出すと、秀頼らに「毒饅頭」であることを悟られてしまいます。
そこで、家康は家臣の平岩親吉(ひらいわ ちかよし)に毒饅頭を食べさせ、秀頼らを安心させる作戦に出ました。
ただ、それでも安心できない清正は秀頼の代わりに饅頭を食べて、その場をやり過ごしました。
清正は自分の命と引き換えに秀頼を守ったのです。
ちなみに、清正と共に秀頼に帯同していた池田輝政(いけだ てるまさ)や浅野幸長(あさの よしなが)らは毒饅頭を食べてしまい、その後亡くなっています。
「大御所様(家康)の食事会の時、気分が悪くなった者がいた」と記された文献も残っています。
また、毒見役をした平岩親吉も会見の後に亡くなっています。
戦国時代において、天下を取ることとは、これほど壮絶なことだったのです。
ここまで「徳川家康による毒殺説」を解説してきましたが、清正の死に関しては、実はこれ以外にも様々な説があります。
1つずつ解説していきます。
その2 梅毒で死亡説
清正は好色(女性を好むこと)だったため、梅毒(性病)にかかって死んだという説があります。
当時、梅毒は全国的に広まった病気で、不治の病でした。
徳川幕府側の史料「当代記」では清正の死について「好色故の「虚ノ病」で亡くなった」と記されています。
(「当代記」には浅野長政、池田輝政も梅毒で死去したと記されています)
これは、彼らが共に出陣した朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)で遊女に接したことが原因と考えられています。
(ちなみに、家康の陰謀で、梅毒に感染に感染した女性が送り込まれたという説もあります)
梅毒に感染してから死亡するまでの期間が約10年なので、タイミングとしてはおかしくありません。
ただ、「高熱が出て、ろれつが回らず、身体が焦げたように黒くなった」という清正の症状からは「梅毒」ではないほうが有力と考えられています。
その3 ストレスで死亡説
清正の生涯を振り返ると、常に「困難」がつきまとっていた人生といえます。
●秀吉の家臣の頃は、成果(戦果)を上げなければならないプレッシャー
●寒さと飢えに苦しみながら戦った朝鮮出兵
●徳川家康と豊臣秀頼との板挟み
などなど。
これらのストレスが少しずつ体を蝕んでいき、「スキルス性胃がん」になったのでは?という説があります。
「スキルス性胃がん」は初期症状がほとんどないタチが悪い胃がんで、清正の症状とも合致します。
その4 ハンセン病で死亡説
清正は「ハンセン病」だったという説もあります。
熊本市には清正を祀っている本妙寺があり、清正を「ハンセン病の神様」と崇め、全国から「ハンセン病」の人たちが本妙寺に集まったこともありました。
ハンセン病は発症するまでの潜伏期間が長く、発症するまでに3~5年、長ければ10年~数十年になることもあるので、仮にハンセン病だった場合、かなり以前から感染していたと考えられます。
ただ、ハンセン病の場合、具足や兜などの着用に皮膚が耐えられず、対策ををする必要がありましたが、清正にはそのような形跡は残っていないことから、「ハンセン病」も有力ではないようです。
まとめ(超個人的見解)
徳川家康は「関ヶ原の戦い」で天下を取った、と思っている人が多いですが、事実は少し違います。
「関ヶ原の戦い=豊臣家の内紛」です。
石田三成らの「文治派」が西軍、加藤清正らの「武断派」が東軍に分かれた戦であり、東軍のトップがたまたま家康だっただけです。
事実、家康は孫娘の千姫(せんひめ)を秀頼に嫁がせるなど、豊臣家にかなり気を使っています。
家康と清正の関係も良好で、家康の十男・徳川頼宣(とくがわ よりのぶ)と清正の次女・八十姫(やそひめ)は結婚しています。
これらの行動から、「家康の毒殺説はありえない」と唱える人もいます。
しかし、それでも私は「徳川家康による毒殺説」が有力だと思います。
清正らが生きている間は彼らと一緒に秀頼を補佐しようと考えていたかもしれませんが、その後、清正ら豊臣恩顧の武将たちが次々に死んでいきます。
この状況から、家康は方針を転換し、自ら天下を取る(=豊臣家を滅ぼす)ことを決断したのだと思います。
織田信長や豊臣秀吉、武田信玄など錚々たる武将がいなくなった今、天下を統一できるのは自分しかいないと感じてもおかしくはありません。
しかし、清正は「虎退治」など数々の伝説があるほどの猛将です。
「戦い」では敵わないから「毒」で殺す。
そう考えた家康は秀頼との会見を利用して、清正を毒殺したのです。
家康らしいやり方だと思います。
ところで、もしも加藤清正が生きていて「大坂の陣」が起こったら、清正は果たしてどのような行動を取ったのでしょうか?
ここで豊臣側についていたら、豊臣軍の勝利で終わっていたかもしれません。
そうなると、その後は豊臣幕府が誕生し、現在の日本の首都は大阪になっていたはずです。
そう考えると、清正の死によって日本の歴史が大きく変化したことは間違いありません。
一方で、「大坂の陣」で亡くなったといわれる豊臣秀頼が実は生きていた!?という説もあります。↓併せてお読みください。