宮本武蔵 伝説|武蔵に勝った3人の剣豪を徹底解説!
宮本武蔵といえば、生涯無敗の剣豪として有名ですよね。
「60戦して無敗」とも言われており、歴史上最強の剣豪といっても過言ではありません。
しかし、そんな宮本武蔵は実は「生涯無敗ではなかった!?」という説があります。
まず、「60戦して無敗」という言葉ですが、これは武蔵が書き記した「五輪書(ごりんのしょ)」の中の↓こちらの文章に基づいています。
わかりやすく説明すると、「13歳から28~29歳までの間に60数戦して負けたことはない」という意味です。
ちなみに、佐々木小次郎との巌流島の決闘がまさに28~29歳の頃に行なわれたので、巌流島の決闘までは負けたことがない、ということです。
実際に、武蔵は佐々木小次郎との戦い以降も度々決闘や試合をしていますが、「五輪書」には記されていないので、詳しいことはわかっていません。
それでは、武蔵は一体誰に負けたのでしょうか?
ここから、武蔵に勝利したという説がある3人の剣豪を紹介します。
武蔵に勝利した1人目…夢想権之助(むそう ごんのすけ)
武蔵に勝利した1人目は、夢想権之助(むそう ごんのすけ)です。
権之助は戦国時代から江戸時代初期の人物で、剣豪・桜井吉勝から「新道流(新當流)」を学び、奥義「一の太刀」を授けられました。
地元では負け知らずだったので、背中に「兵法天下一夢想権之助」と記された布をはおり、8人の門弟と諸国を巡る旅に出ました。
その旅の途中で(1605年)、権之助は播州の明石で武蔵と遭遇し、丁寧な言葉ながら↓このように挑発をしたそうです。
武蔵は権之助の申し出を断ったものの、権之助があまりにしつこいので試合をすることにしました。
長さ九尺(約270cm)もある木刀を振り回す権之助を武蔵が軽くあしらっていると、木刀が武蔵の体をかすりました。
すると、権之助は「勝った!勝った!」と騒ぎ始めたため、武蔵は怒り、あっという間に権之助を打ち負かしました。
その後、権之助は心を入れ替え、「打倒武蔵」のために修業をスタート。
槍・薙刀・太刀の三つの武術を融合した「杖術(じょうじゅつ)」を編み出しました。
そして、権之助は武蔵との再戦を果たし、権之助が勝利したといわれています。
ところが、武蔵側は「引き分けだった」といい、勝敗の行方ははっきりとわかっていません。
ただ、権之助側は「勝った」といい、武蔵側は「引き分けだった」といってるところから、権之助がとても強い剣豪であったのは間違いないでしょう。
そして、これが評判となった権之助は筑前福岡藩・黒田家に召し抱えられ、「神道夢想流杖術」が福岡藩の門外不出の武術として伝わり、現代の警察が習得する「逮捕術」の一環として現在でも使われています。
武蔵に勝利した2人目…荒木又右衛門(あらき またえもん)
武蔵に勝利した2人目は、伊賀の「鍵屋の辻」で36人斬りをやってのけ、天下にその名をとどろかせた荒木又右衛門(あらき またえもん)です。
試合は、徳川三代目の将軍である徳川家光の眼前で行なわれた御前試合(寛永御前試合と呼ばれています)です。
当時、武蔵は50歳前後でした。
それでは、武蔵と又右衛門の試合はどのようなものだったのか?といいますと、白熱した好試合だったようです。
最後の場面で又右衛門が渾身の力で木刀を打ち込むと、武蔵は十字に組んだ二刀で受け止めます。
しかし、又右衛門の打ち込みがあまりにも強烈だったため、武蔵は片方の剣を落としてしまいます。
これをチャンスと見た又右衛門は、畳みかけるように切り込んできます。
武蔵は片方の剣でこれを受け止めるものの、ここで「参った…」と言ったそうです。
その後の2人の会話は以下の通りです。
又右衛門:
「いや、怪我(けが)の功名(こうみょう)、迚(とて)も我らの及ぶところではござらん」
武蔵:
「何をいわれる、恐れ入ったるお腕前、某(それがし)の及ぶところではありませぬ」
そのような会話を交わし、2人はお互いを称え合ったそうです。
2人はほぼ互角の戦いをしましたが、二刀であれば武蔵も強いけれど、刀一本での勝負では又右衛門には敵わないだろうということから、又右衛門の勝利となりました。
ちなみに、又右衛門は武蔵より15歳ほど若く、年齢的には又右衛門のほうが有利に感じられます。
しかし、武蔵は「五輪書」の中で「兵法の神髄に到達したのは50歳前後だった」と書き記していますから、自信をもって又右衛門と対峙したはずです。
また、そんな又右衛門は40歳で亡くなっています。
一方、武蔵は62歳まで生き、60歳の時に洞窟にこもって「五輪書」を書き残しました。
この試合は、講談本「立川文庫」の「寛永御前試合」に書き記されていますが、そもそもこの試合そのものが架空であるという説もあります。
武蔵に勝利した3人目…塚原卜伝(つかはら ぼくでん)
武蔵に勝利した3人目は、塚原卜伝(つかはら ぼくでん)です。
塚原卜伝とは、「鹿島新当流」をひらいた戦国時代の剣豪で、戦歴は生涯無敗を誇り、最強の剣豪といわれた人物です。
史実での実績は申し分なく、実力でいえば宮本武蔵よりも格上だったと言われるほどです。
それでは、武蔵と卜伝の戦いはどのようなものだったのか?といいますと、若い頃の武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めました。
すると、武蔵は己の負けを悟って去っていったという逸話があります。
ただ、この逸話は後世の創作である可能性が高いですね。
なぜなら、武蔵が生まれた年は最も早い説でも1582年ですが、卜伝は1571年に亡くなっています。
武蔵が生まれる10年くらい前に卜伝は死んでいるので、そもそも戦うことができません。
ちなみに、幕末の新撰組の局長である近藤勇が会得したと言われている「天然理心流」は卜伝の流派・鹿島神道流の流れを汲むものです。
まとめ(超個人的見解)
「宮本武蔵が負けた」という説がいくつか残っていますが、これはやはり武蔵が強かった何よりの証といえるでしょう。
また、当時の兵法者たちにとって「宮本武蔵に勝った」というのはそのまま知名度を上げり、諸藩の大名から取り立てられ、出世することにつながります。
現代でいえば、Jリーグで活躍すればヨーロッパリーグからスカウトされるようなものでしょうか。
ところで、夢想権之助(むそうごんのすけ)との試合は勝者があやふやですし、荒木又右衛門(あらきまたえもん)との試合は架空であるという説もありますし、塚原卜伝(つかはらぼくでん)との戦いは年代的に完全に創作話です。
そう考えると、やはり武蔵は生涯無敗だったのかもしれません。
あと、個人的に見たかったのは「宮本武蔵VS沖田総司」も見たかったな~。