明智光秀 生存説|光秀は南光坊天海となって生きていた9つの説を徹底解説
「本能寺の変」で織田信長を討ち取った後、「山崎の戦い」で死んだはずの明智光秀が …実は生きていた!?
しかも、「天海(てんかい)または、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)」という名前で徳川家康の側近となり、江戸幕府の発展にも大きく貢献したという驚きの説があります。
今回は、この驚きの説をわかりやすく解説いたします。
「明智光秀 生存説」が生まれた経緯
…その前に、明智光秀について改めて説明したいと思います。
明智光秀は「本能寺の変」後、「山崎の戦い」で豊臣秀吉に追い詰められ、その後土民の落ち武者狩りに遭って死んだといわれています。
この時、討ち取った証拠として、本能寺で光秀の首が晒されたことも記録に残っています。
しかし、この首が100%本物とは言い切れません。
「山崎の戦い」は旧暦6月(=新暦7月)に行なわれた戦いで、季節は夏真っ盛り。
光秀の首は暑さでかなり傷んでしまい、しっかり本人確認ができなかった、ともいわれています。
(また、晒された首は光秀の影武者のものであったという説もあります)
つまり、光秀が死んだことを100%断定することができなかったということです。
ここから「明智光秀 生存説」が囁かれるようになりました。
そもそも「天海(南光坊天海)」って誰?
次に、「天海」について説明します。
天海は、1536年に陸奥国(福島県、宮城県、岩手県、青森県)で生まれました。
陸奥国の武将である蘆名氏(あしなし)の一族の出身という説が有力です。
(生まれた年は諸説あります)
亡くなったのは1643年なので、「1536年生まれ」が正しければ、107歳で死んだことになります。
(かなり長生きですよね~~~!)
また、明智光秀は1528年生まれなので(こちらも諸説あります)、天海が1536年生まれであれば、光秀のほうが8歳年上ということになりますが、ほぼ同時代に生きていたことは間違いありません。
天海は天台宗の大僧正(僧侶の位の最高位の人のこと)で、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)ととも呼ばれます。
また、天海は徳川家康の側近として活躍し、「家康の懐刀」といわれるほどの人物でした。
その発言力はとても強く、徳川幕府における多くの政策に深く関与したほどです。
家康が初めて天海に会った時に「天海僧正は人中の仏なり」と評したそうです。
また、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光の3代に渡って徳川家に仕え、江戸幕府の宗教政策に大きく貢献しました。
ただ、天海に関する詳しい経歴はいまだにはっきりとわかっていません。
第12代将軍足利義晴の子である説や、古河公方足利高基の子である説など、様々な説が唱えられてきた謎が多い人物です。
…というわけで、いよいよ「明智光秀=天海 同一人物説」について解説していきたいと思います。
明智光秀と天海には多くの共通点や2人が同一人物である理由があるので1つずつ解説していきます。
ポイントその1 「慈眼寺」と「慈眼堂」と「慈眼大師」
明智光秀の位牌は、京都の「慈眼寺(じげんじ)」というお寺に納められています。
慈眼寺のある場所は、かつて光秀が築いた周山城(しゅうざんじょう)のあたりです。
また、天海の諡号(死んだあとに付けられる名前)は「慈眼大師(じげんだいし)」です。
さらに、天海の墓がある「慈眼堂(じげんどう)」は、滋賀県大津市坂本の恵日寺にあります。
滋賀県大津市坂本といえば、光秀が坂本城を築いた場所として有名ですよね。
このように、「慈眼寺」「慈眼堂」「慈眼大師」の3つの名前が共通することや場所の共通性から、2人の同一人物説を唱えられるようになりました。
ポイントその2 埋蔵金伝説
明智光秀には「埋蔵金伝説」があります。
この伝説が残っているのは、現在の兵庫県丹波市・丹波篠山市で、光秀が築城した金山城(きんざんじょう)があった場所です。
光秀の残した歌の中に↓このような内容のものがあります。
「金山城近辺に埋蔵金を隠した」と思われる内容が記されており、ここから「埋蔵金伝説」が生まれました。
それ以外にも、光秀の位牌が納められている慈眼寺あたりに埋めたという説や、琵琶湖に沈めたという説もあります。
この埋蔵金の行方は今現在も不明ですが、江戸時代にある人物が埋蔵金を見つけ出したという説もあります。
その人物こそが天海です。
徳川家康の側近であった天海が埋蔵金発掘の責任者となり、埋蔵金を発見したといわれています。
もし明智光秀と天海が同一人物であれば、自分で隠した埋蔵金を自分で発掘したわけですから、簡単に見つかったはずですよね。
ポイントその3 家康は光秀にゆかりがある人を優遇!
3代将軍・徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三(さいとう としみつ)の子・春日局が選ばれ、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝(みぞお しげとも)の孫の三沢局(みさわのつぼね)が選ばれました。
いずれも明智光秀にゆかりがある人が乳母になっているわけです。
また、「山崎の戦い」で明智側についた京極氏(きょうごくし)は、「関ヶ原の戦い」で東軍(家康側)につき、大津城に籠城したものの、その後西軍に降伏してしまいました。
それにも関わらず、「関ヶ原の戦い」の後加増されました。
一方、「山崎の戦い」で光秀に敵対した筒井氏(つついし)は、慶長13年(1608年)に改易(官職や身分が取り上げられること)されています。
さらに、光秀の孫の織田昌澄(おだ まさずみ)は「大坂の陣」で豊臣方として参戦しましたが、戦後助命されています。
このように、あらゆる場面で家康は光秀にゆかりがある人を優遇しているのです。
とても不思議ですよね。
この不思議な現象が起こった裏には、光秀が天海となり、家康の側近となったことが関わっている可能性は十分にありますね。
ポイントその4 徳川2代・3代将軍の名前に「光秀」の文字あり!?
徳川家と光秀の関わりは他にもあります。
2代将軍・徳川秀忠の「秀」の文字は光秀の「秀」から、3代将軍・家光の「光」の文字は光秀の「光」からとったという説があります。
たしかに、「秀忠」と「家光」の名前には「光秀」の文字がありますね。
しかし、秀忠に「秀」の字を授けたのは豊臣秀吉、家光に「光」の字を選んだのは金地院崇伝(臨済宗の僧)であることがほぼ確実なので、この説の信憑性は低いといえますね。
ポイントその5 日光市の「明智平」の名付け親は天海!?
栃木県日光市に「明智平(あけちだいら)」という観光スポットがあります。
実は、この地名は天海がこの地名を名付けたという説があります。
その理由は、もちろん明智光秀の名前を残すためですよね。
しかし、天海が地名をつけた確かな史料はなく、伝説として伝わっているだけのようです。
ポイントその6 「日光東照宮」に明智の桔梗紋が使われている!?
徳川家康を神として祭っている神社・日光東照宮は、天海の指揮の元でつくられました。
その日光東照宮に明智光秀の桔梗紋が使われているという説があります。
陽明門の随身像の膝のあたりに家紋です。
しかし、この家紋は織田木瓜(織田信長の家紋)です。
光秀の桔梗紋ととてもよく似ていますが、こちらの説は完全に間違いですね。
ポイントその7 比叡山の松禅寺の石灯籠
比叡山の松禅寺(滋賀県大津市)に石灯籠があるのですが、この石灯籠には↓このような文字が刻まれています。
わかりやすく説明すると、この石灯籠は慶長20年(1615年)に「光秀」という人物から寄進されたと記されているのです。
ちなみに、この年の5月には「大阪の陣」で豊臣一族が滅亡しており、「山崎の戦い」で敵となった豊臣家の滅亡を願い、光秀が寄進したのではないかといわれています。
ただし、明智光秀は1528年生まれなので、石灯籠を寄進した1615年には87歳となります。
かなり高年齢であることから、石灯籠を寄進したのは別人である可能性が高いですし、「光秀」という名前は決して珍しいものではないので、必ずしも明智光秀であるとは限りません。
やや信憑性に欠ける説ですね。
ポイントその8 童謡「かごめかごめ」は光秀(天海)のことを指している!?
童謡「かごめかごめ」は江戸中期に生まれ、昭和初期に広まった童謡ですが、この歌は明智光秀(天海)のことを指しているのでは?という説があります。
「かごめかごめ」の歌詞は↓こちらです。
この歌詞にはいろいろな意味が含まれているのです。
「かごめかごめ」の歌詞を元に解説します。
かごめかごめ
かごの中の鳥は →「鳥」は光秀のルーツ土岐氏を指す
いついつでやる →「さて、いつ復活するのか」という意味
夜明けの晩に →「秀吉の時代が終わり、家康が天下を取った」(または「日光」)という意味
鶴と亀がすべった →鶴は「天」、亀は「海」を表わし「天海」なる。「すべる」は「統べる=統治する」という意味なので、「天海が統治する」という意味
うしろの正面だあれ →光秀が自分の出身地から日光東照宮を向くと、「後ろの正面」は光秀の肖像画がある本徳寺にあたる
なんだか説得力がある説ですよね。
ちなみに、天海は家康の側近となり、江戸幕府は盤石なものとなりました。
その後265年間に渡り日本を統治したわけですから、「かごめかごめ」の歌詞にある通り、「天海が統治する」が現実のものとなったともいえます。
ポイントその9 「関ヶ原合戦図屏風」に天海が描かれている!?
「関ヶ原の戦い」の様子を描いた「関ヶ原合戦図屏風」には、鎧で身を固めた天海と思われる人物の姿が描かれています。
光秀は戦上手だったので、その後天海となった光秀は家康の軍師的な役割を果たしたという説があります。
ただ、この屏風は1854年(江戸後期)に描かれたものなので、「明智光秀=天海 同一人物説」の確たる証拠にはならないですね。
全国各地に残る「明智光秀生存説」
これ以外にも、明智光秀が生きていた!という説は全国各地に残っています。
●京都宇治の専修院と神明神社には、「山崎の戦い」後に光秀を匿ったという伝承が残っています。
●「和泉伝承誌」には、「山崎の戦い」後に光秀が京都の妙心寺に姿を現し、その後和泉に向かったと記されています。
●大阪の本徳寺には、光秀が潜伏していたという伝承が残っており、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っています。
●岐阜県山県市中洞には、光秀が落ち延び「荒深小五郎」と改名して「関ヶ原の戦い」の頃まで生き延びたという伝承が残っています。
日本の歴史の中でも特に注目される明智光秀だからこそ、全国各地に「明智光秀生存説」が残っているのでしょう。
まとめ(超個人的見解)
「明智光秀=天海 同一人物説」は、1916年(大正15年)に刊行された天海の伝記「大僧正天海」(須藤光暉著)で一躍有名な説となりました。
この本には、一部の考証家が「光秀が天海となり、豊臣氏を滅ぼして恨みを晴らした」という「奇説」を唱えていると記述してあります。
明智光秀と豊臣秀吉は、織田信長の家臣だった頃からライバル関係にあり、最終的に光秀を「死」に追い込んだのは秀吉です。
この長年の恨みから、光秀が天海となって家康の側近となり、その後「大坂の陣」で豊臣家を滅ぼした!という説には大きな説得力があります。
また、光秀は人格者であり、彼が治める国では常に領民から愛されていました。
しかし、光秀は「本能寺の変」で歴史上最大の裏切者と言われるようになりました。
かつて光秀が治めた国の領民たちは、愛すべき領主である光秀を「歴史上最大の裏切者」と呼ばせたくはありません。
そのような「思い」から、「明智光秀=天海 同一人物説」や「明智光秀 生存説」が囁かれるようになったのかもしれません。
いずれにしても、現代に至るまで世間を騒がせてい明智光秀という男は(改めて)すごい人物だな~と感じました。